2010年6月30日水曜日

涼宮ハルヒの消失(映画)を鑑賞してきましたよ

今日はサッカー日本代表戦。

他国開催で初の決勝トーナメント、がんばれサムライブルー!

…ということで、今日は仕事をちょい早めに切り上げて…「涼宮ハルヒの消失」を新宿で見て来ました。

…いやあ。

とりわけライトノベル好きでもないつもりなんだけど、このシリーズはふとしたきっかけで読んでいて、結構好きでさ。特にこの「消失」は世間の評価通りに秀逸だと思うし。

それが映画化ですから気にはなるんだが、そもそも俺はあまり映画館には行かないしねえ。春に仕事で外出した際にチャンスがあったものの、勇気が出ずにスルーし、まあDVDが出たらこそっと見るか…と思っていた。

で、そろそろレンタルしてねーかなあ、と先日に検索したら、レンタルしてないかわりに、新宿の映画館で今更上映し始めているのを発見。…これは神が「別にエロ映画ではないのだから堂々と見に行きなさい」と言っているのだと理解し、ついに劇場へと足を運んだ。…最近忙しいから息抜きしたかったってのもあるし…。

とは言え、やはりチケット売り場でお姉さんに「涼宮ハルヒの消失を」と告げるのは、「エヴァンゲリヲンを」と言うのよりさらに若干の勇気を要した。俺も小物だ。


が、いい加減に封切りからだいぶ時間たってるし、平日だしサッカーの日だしで、狭いながらガラガラの映画館でゆっくりと鑑賞できて良かった。2時間40分という大作、後半は膀胱がモジモジしたが、それ以外は実に快適であった。

肝心の中身についての感想。

アニメ放映がそうであったように、およそ原作に忠実であった。だからイメージを裏切らないが期待をいい意味で裏切ることもない。


それでも、確かに長門は…そうだな、帰り道に新宿駅の三次元女がキタナラシク見えてしまう程度には可愛かった。うん。

いや。それは重要だが些細な問題で。やはり、平行世界的なSF要素も、また悪く言えば陳腐だが良く言えば王道な青春的物語も、原作通りの爽やかさで楽しめた。

俺の高校生の頃には、周囲にもちろん超能力者も宇宙人も未来人もいなかったが、同時に消失長門その他のような可憐な美少女もいなければ、そういった相手に安い恋愛感情ではない何かを抱けるほど純真でかつ成熟した自分もいなかった。

そう、改変後の世界の「普通の」学園生活も、現実から見ればSFと同じくらい遠い世界なのだが、だからこそ憧れる、或いは懐かしい。

映画として言えば、原作を読んでなければ着いていけない(話はわかっても魅力がわからない)、終盤の演劇的演出?は少々食傷気味な印象だ…など、難癖をつけるべきところはいろいろありそうだが、ま、それでも、とにかく、3時間弱を愉しく過ごせたのは確かだ。

エンドロールのアカペラは…素直に伴奏付ければよかったのにと思いながらずっと聞いていたが、その後のオマケ映像で、図書館で女の子に図書カードを作ってあげた男の子を見て、読んでいた本を上げて口元を画した長門は…どっちの世界のだったのだろう?

ただ、いずれにしても…キョンが困難な日常を自ら選択したように、長門もまた、自らが選んだ人間に託すという形で”エラーの溜まる”世界を選択した。

途中のキョンの、たいした感動を呼ばないモノローグにあったように、幸福というものの構成要素に納得というものがある程度の重要な役割を占めるなら、やはり、結果としての安寧よりも自ら選択する意思というものは重い。

…とかね。解説を試みることにいかほど価値があるかと思うけど、やはり、ただ可愛い女の子が出て来るアニメというわけではないなとは、思いましたよ。