2008年10月13日月曜日

【ブレイブ・ストーリー】端折りすぎ

小説の方を読んでから、暇もあったので映画の方も見てみることにした。



メインキャラクターの絵などは、映画化の際のポスターで小説を読むより前に見かけていたから、あまり違和感ない。
けど、ちょっと脇役になると結構違和感あった。とは言え、脇役は、小説ではかなり重要な役割をしていたが、映画ではほんとに脇役だったので、違和感などあろうとなかろうとあまり関係ないとも言える。

そう、キ・キーマやミーナ、カッツにトローンといったキャラクターは、本当にただの脇役に成り下がっている。それぞれが抱える葛藤もドラマもすべてすっ飛ばされている。

そして、それはワタルとミツルについても同じ。

ワタルとミツルの、現世での生活の描写が大幅に割愛されているため、それぞれが、どういう、どれほどの決意を秘めて幻界に”運命を変える”ために旅立つのか、その重みが伝わりにくい。

人柱を巡る不安、絶望という物語後半の核と言える部分はきれいサッパリ省略されているし、中盤の転機となる、父親との、そして自分との葛藤も、仄めかす程度で終わっている。


正直、文庫で十分な厚みのある3冊分の話を2時間枠に押し込むのに無理があったのではないかなあ。

せっかく作画などは別に文句をつけたいとも思わないクオリティなのに、話がひどく薄っぺらで、先に原作を読んでいればまだ良いが、そうでないと、ストーリーに着いて行くことすら困難だろう。

もし、原作未読でこの映画を見て、期待ほどじゃないと思った人がいたら、映像のイメージだけ受け取っておいて、原作を読んで見ることを進める。もったいない。

【ブレイブ・ストーリー】残酷な物語

これを読もうと思ったきっかけは何だろうな。

これまでも、適当に思いついたものを手にとっているだけだが、適当に思いつくというのはつまりそれなりの理由があるということだ。

今回はアレだな、たぶん。

まず、俺はそもそもファンタジーは好きだ。とんとご無沙汰だが、ファイナルファンタジーはXIIまで、ドラゴンクエストはVまではやった。指輪物語は映画化前に読んでいたし、その前身の「ホビット」は原著で読んだくらいだ。

で、ブレイブ・ストーリーの作者、宮部みゆきは、俺がここのところ立て続けに読んだ京極夏彦と同じオフィスに所属しているようなので、最近ちらちら名前を見ていた。そして、この作品の映画化が少し前にあったから、その作品名も記憶していた。


そんな感じで、「まあ、それなりにヒットしたからには面白いんだろう」くらいの期待で手に取った。



なんとなく、少年がファンタジー世界で冒険する物語ということは知っていて、まあ、大人も楽しめる少年向けのお話かと気楽に構えて読み始めた。

ところが。

文庫版なので、上・中・下の3分冊だが、その上の大半が終わるまで、主人公はファンタジーな世界での活躍をしない。剣も魔法も殆ど無い。

では、何が描かれているのか?

それは、小学生の主人公の日常と心理の描写である。だが、それは、往々にして大人がこうであれと思うような、都合よく無垢で鈍感にデフォルメされたものではない。

理想の家庭を築こうとするあまり視野狭窄に陥り、”中流”な自分に比べて”品の無い家庭”の子どもやおじさんを卑下して息子から遠ざけたがる母親。

家庭から心が離れてしまった、理屈屋の、”大人の考え方”を盾にしてその実は甚だ子ども染みた身勝手を行う父親。

嫁を孫を傷つけても、最後は息子が可愛い祖母。

小学生を生活にだって否応なく存在する、同級生、上級生、そして父母の影を交えた政治的な現実。

無力で脆弱だが、大人の事情だって決してわからないわけではない―例え、それを理路整然と説明は出来なくても肌は感じている―子どもの葛藤。


もう、痛々しいことこの上ない、いや、むしろリアル過ぎてドライなまでの、子どもの苦悩の描写が続く。

読み進めながら、あれ、おかしいな、冒険活劇じゃなかったのか?という疑問やじれったさを感じる一方で、主人公・ワタルの至らないながら痛みを伴う現状把握に、そう、そうだよなと。

俺だって、そりゃまあ普通と言える家庭には育ったが、小学生も後半になれば、大人が、親も、先生も、決してすべてにおいて正しい人間ではなく、明らかに誤った知識を持ち、誤った思考をし、そして政治的、暴力的な力の上下関係の中で不正に屈服しながら、自己正当化と保身に身を砕きながら、そのくせ俺の―子どもの前では、自分はすべてにおいてお前よりは正しいのだと言う顔をして説教を垂れ、それが破綻すれば暴力で威嚇して無理を通すと、そんなことには薄々、時にはっきりと、気づいていた。

それでも、そんな大人の欺瞞に対して、暴力で対抗する体力も、理屈で論破する知力も足りなかったから、ごめんなさい、僕が間違っていました、もうしませんと頭を垂れなければならなかった。その時流していた涙は、怒鳴り声や拳骨が怖かったからでも、自分の過ちを悔いていたからでもない、ただ、その大人を説き伏せられない、殴り倒せない、自分の無力が悲しくて口惜しくて涙が溢れていたのだ。

と、まあ、そんなこともきっと、みんなそうだったのだろうなあ、と自分が大人になった今は笑って許してやろうかと思っているが、それでもその気持ちを覚えているから、ワタルの家庭が破綻していく中での葛藤の描写には、ぐいぐいと引きこまれた。


さて、中巻以降は、ようやく幻界なる異世界での冒険となる。剣と魔法と異形の世界だ。

しかし。

ここで描写されるのも、差別、貧困、政治と腐敗、信仰とカルト。そして個人の内なる悲しみと憎しみ。目的の達成とその代価。誰かの幸せと他の誰かの不幸。

冒険活劇としての盛り上がりも十分ではあるが、それにしてもその背景は徹頭徹尾、シビアな話の目白押し。


これは、想像していたのとは違った。もっとライトな話だと思っていたのに。

しかし、それはつまり、想像していたのより、ずっと面白かったということだ。


小学生が、異世界へと旅立って冒険をする。と、短く言ってしまうにはあまりにもったいない話だ。

みんなの全ての苦しみを取り除くようなことは出来ない、という残酷な回答。しかし、それは同時に、人は苦しみすらも我が物として乗り越えることが出来得るという希望でもあると。

2008年9月29日月曜日

【クライマーズ・ハイ】谷川岳に登りたくなった←単純

少し前、夏に読んだのだが。

クライマーズ・ハイって言うくらいだから、登山家が遭難でもする話だとばかり思っていた。表紙は知っていて、そこに山が描いてあったし。小さく飛行機が飛んでいることはワンポイント程度のものとしか思っておらず。

実際には、これは御巣鷹山の日航機墜落事故の話だった。



と、いうことを知ったのは、この夏に映画が公開されるにあたり、CMを見たからだ。


そうと知って、ちょっと興味を覚えた。あの事故の時、次々とニュース速報が流れ、やがて特別番組が組まれて行くのを、俺は子ども時代の思い出として記憶している。

家族と「行方不明」と繰り返されるテロップを見ながら、小学生ながら現実志向だった俺は、「いや、どう考えてももう落ちたよ、ジャンボ機が行方不明なんかない」と軽く興奮しながら他人事のようにヘラヘラと語ったものだ。実際他人事だしな。

数日後、当時勢いのあった写真週刊誌がこぞって事故現場の写真を掲載すると、クラスに一人二人はそれを購入して学校や友人宅に持ってきて、「こえー!」「死体が写ってる!」と大騒ぎだったのを覚えている。

芸能人が自殺した時もそうだったが、俺は、しかし、そういう写真を楽しく眺める気にはならなかった。一応、ちらりと目に入れたような気がする。しかし、何が写っていたか、まったく記憶がない。白黒写真で、山だった。それしか覚えがない。

俺は忘れ物などは多いが、結構古い子ども時代の記憶もしっかり持っている方だと思う。でもその写真の内容は、枯れ木の山の白黒写真、としか覚えていない。そんな筈はないのだが。拒否していたのだと思っている。

俺は、500人からが死んだって、他人事の事故ならば、いつでも地球上では大勢の人間が死んでいる、ちょっと場所とタイミングが偏っただけ、と思うことも出来る。そういうつもりだった。しかし、写真に個人の死体を認めたら、その事実を、どこか遠くの話として置いておくことが出来なくなる気がしたのだろう。

ま、そもそも、交通事故現場も何も見るのは嫌いだったから、単に死体が怖かったのかも知れない。


さて、そんな遠い思い出もあるこの、史上最悪な航空機事故。

この作品は、この事故そのものではなく、事故を追う地方新聞社の内幕を描いたドラマだ。


正直、常日頃から、事故や災害を取材する新聞社を始めとするマスコミには、反吐が出る思いだ。報道の自由だの知る権利だのと美辞麗句を並べ、やっていることは、部外者が知る必要もないような不幸を晒し者にするために、苦境にある人々の心に土足で踏み込む屑どもだと思っている。実際、心どころか被災者の家に土足で踏み込むような連中も少なからずいるらしいしな。

それを、せいぜい小奇麗にまとめるつもりなんだろうか・・・と、そんな疑念も持ちながら読み始めると、これが全然違っていた。

全然、綺麗ではない。まさにその問題を突いていた。功名心とエゴを小賢しい理屈で武装する記者。しかし、それだけなわけでない、理由があれば何をしても許されるわけではないが、しかし理由もなく非道を行うわけでもない、と、そんなことが描かれているように思えた。


話が始まった頃には飛行機はもう落ちていて、舞台の大半は新聞社のビル内。ある意味で、とても地味。しかし、最後まで、非常な緊迫感をもって話はぐいぐいと展開する。その一方で、過去に傷を持つ友人、すれ違ってしまった息子との対話、そういったものが緩急を与えているから、途中で飽きたりもしなかった。

それに、飛行機は最初から落ちちゃってるから、500人からの犠牲者は生き返りはしないし、それはそれで暗い陰となるのだが、それでも読後感は爽やかという、随分アクロバチックな話になっている。それが凄いと思った。



ま、そう、結論を短く言うと、とても面白い。

あまりに面白かったので、映画を見るのは止めたくらいだ。これでは、2時間くらいの映像では、劣化コピーにしかならないんじゃないか、と思って(見てないから実際どうだかは知らない)。


そう、この小説は素晴らしい。



だが、それだけじゃなかった。

読み終わってから、事故に関する情報を改めてちょっと調べた。Wikipediaなどで手っ取り早く。そうしたら、とても辛い気持ちになった。小説とはもう切り離れたところで、つらさを感じた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%88%AA%E7%A9%BA123%E4%BE%BF%E5%A2%9C%E8%90%BD%E4%BA%8B%E6%95%85
↑外部リンクなどまで見てしまう激しく辛い

挙句、生存者の証言まで読むにあたって、仕事中にも関わらず、俺は終に落涙した。



どうしようもなく絶望的な状況で、自分に何の咎も無く、また何の術もなく、それでも人間は、人間足り得る。自分ではなく、他人の心配をしてやることが出来る。そして、一縷の、本当に僅かな、それこそ奇跡としか呼べない希望を、捨てないでいることも出来る。

改めてこの事故の手記や遺書を目にしたとき、俺は人間の気高さというものに対し、畏怖に近い感動を覚えた。

もちろん、事故自体は、あってはならないものだった。全国のお茶の間の涙を誘うためなんかに500人からが命を投げ打ったわけじゃない。

それでも、その痛みは、また少し人間を、知性を持ってしまった以上あるべき姿に近づけたのだと思う。

20年以上が経ち、あまり大きな犠牲を代償に得た教訓は、完全に活かされているとは言えないのだろうが、しかし、何にもなっていないわけじゃない。



最後に、事故現場は、当時「御巣鷹山」と言われていたが、正確には「高天原山」だそうだ。

”高天原”といえば、神話において神々の住まう処であろう。そんな地名が何の鎮魂になろうか、とも思うが、それでも、せめて。

2008年9月28日日曜日

【悪魔が来りて笛を吹く】悪くない。むしろ良い。

「悪魔が来りて笛を吹く」を読んだ。犬神家の一族で初めて金田一シリーズを読んで、いまいちハマれなかったのだが、この本は同時に買ってしまっていたので仕方なく読んだ。

最初に結論だけ言ってしまえば、こっちの方が面白い。この作品は、金田一シリーズの中でも異色らしいから、異色の方が気に入るとなると、やはり金田一シリーズは俺には馴染まないのかも知れない。



旧華族の屋敷を舞台にして、犬神家の時と同様に、忌まわしい血の・・・直截に言えば近親相姦の秘密など、と戦後の混乱がカオスな事件を呼ぶわけだ。

相変わらず、金田一はそこはかとなくムカつく。好きになれない。
ちょっと失礼気味だが今風に表現すれば天然というヤツで周囲に好意を抱かせる、という設定なのだろうが、そもそも俺が普段から「天然」などと称されるような人物を嫌うせいだろうか。読みながら端々で、「お前ふざけんなよ」と突っ込みたくなる感覚がある。絶対に友達になれない。


だが、こっちの作品では、犬神家とは決定的に違う要素が一つあった。

物語には欠かせない、事件の中心近くで苦悩している、金田一が救うべきヒロインだ。

犬神家のヒロイン、珠代は、「絶世の美女」と章のタイトルで言い切られるほどの存在でありながら、悲劇の匂いを感じて沈みながらも流され、最後にはすべての種明かしの後に王子様(ちょっと汚れてるけど)が現れて救われるという役どころだった。それが、俺にはさしたる感動を呼ばなかった。

「悪魔が来りて笛を吹く」の方のヒロイン・美禰子は、ちょっとそれとは違う。

作品中の描写を借りよう。

「二十前後の若い婦人で、黒いスカートにデシンのブラウス、ピンクのカーディガンに髪をショート・カットにしていて、ちかごろのその年頃の婦人としては、かなり地味な方である。容貌はお世辞にも美人とはいいにくい。」


絶世の美人と登場前から断言された珠代に比べ、随分な扱いだ。横溝正史もなかなか言う。おでこだ、眼が大き過ぎだ、頬と顎がこけてる、あげくは「気味悪いウィッチのよう」などと否定的な描写が続く。嫁入り前の娘に対して言い過ぎじゃないか、横溝よ?

しかし、父が失踪し、その父に犯人の嫌疑もかかる中で、美禰子は繊細な精神を以って真実を明らかにするための最善を尽くす。だからこそ、金田一の元へ依頼にも行った。

全編を通して、人でなしか腰抜けか犯罪者ばかりの屋敷の中で、ただ一人、恐怖に震えながらも眼を開いて考えている姿は胸を打つものがある。

話が進むにつれて、彼女の立ち居振る舞いが「いかめしい」のは、環境、父が失踪(自殺)をする前から母は精神を病んでおり、浅ましい血族に囲まれて生活する中でそうせざるを得なかったという背景も明かされる。

二十そこそこの娘には辛過ぎる境遇である。

そうなれば、それを助ける金田一も、相変わらず好きにはなれないが応援する気になって来るというものだ。

その健気さは、折りにつけヒロインの容貌や雰囲気を非難していた金田一(横溝)にも、

「まえにも言ったように美禰子は美しくない。(中略)しかし、いまこうしてしょんぼりと、肩を落としているところを見ると、やはり娘らしく可憐なところもうかがわれる」


と、苦しいながらいくばくかの上方修正というかフォローを与えさせるほどだ。

そうだろう、そうだろう、と同意したね。俺はこれでも想像力はだいぶ豊かだと自認している。挿絵などなくても登場人物の容貌くらいは描写の範囲を守って思い描きながら話を読む。そして俺の脳内に構築された美禰子なる人物は、確かに皆が認める美人じゃなくとも、信じて守るに値する魅力を備えていたからだ。

つまるところ、読者が・・・いや、正確には俺が、何がしか感動を覚えるセッティングというのが見えてきた気がした。

つまり、弱い者が、弱いながらその持てる力で、震える足を叱咤しながら立とうという、そういう姿に心打たれるのであって、それが、少女とそれを救うヒーローというステレオタイプに嵌っていれば尚単純に良い。って、あれ、随分普遍的な気もするなこりゃ。






ちなみに。

地味なカーディガン姿にショートカットと言う姿、程度はともかく感情の抑制とその限界の訪れという状況が、先に触れているライトノベルのヒロインに似ているという件は、少し気になるがあまり重要じゃない。

なぜなら、実際に読んだ順番はこちらの方が先だからだ。

いや、もしかしたら、重要なのかもな。

【犬神家の一族】どうもしっくり来ない

もはや説明不要のような気もする。

「犬神家の一族」。金田一耕助シリーズとして有名で、やはりその中でも一番有名なのではないだろうか。

ゴム仮面の佐清、冬の湖面に足だけ突き出した奇怪な死体。

とは言え、実は俺がこの作品について知っているのは、実は以上の情報がすべてであった。実際に読んだことはないわけだ。なので読んだ。

今更、こんな有名過ぎる作品を初めて手に取るあたり、俺は今まで本当に本というものを読まなかったんだなあ、と呆れ返るとともに、思いがけないところに安価な楽しみを見出して喜んでいる次第である。




あらすじはまあいいや。知ってる人も多いだろうし、知らない人は読めばいい。

簡単に感想をまとめると、

ヒロインの珠代は、美しく、苦悩をしていたわけだが、いまいち感情移入はできんかった。「絶世の美人」として描写されているが、どうも最後まで唯々諾々と流されてる感が拭えなかった。もちろん、多少の意思表示はあるのだが、陶物っぽさを払拭するには至らず。

その他の主要人物、ゴム仮面の佐清、デブの佐武、オタクっぽい佐智は、まあ容疑者であり被害者であり、ということで何を考えているのはよくわからず、しかしロクなことは考えていなそうということだけは伝わってくるので、やはり感情移入しずらかった。

最後の方でどんでん返しはあるわけだが・・・ちょっと突然な印象を受ける。まあ、そこが醍醐味なんだろうけど。


と、珍しくあまり好意的でない感想を言っているが、おそらくそれは、あるひとつの不満に収束されるのだ。


つまり、金田一耕助に共感出来ない。


知的好奇心の塊みたいな人物として描かれているのだが、何がどうってわけじゃないんだが、読めば読むほど、人死に対してあまりに軽薄な態度に感じられて、むしろ「いい加減にしろよお前」という感情さえ抱いてしまった。

何がそう感じさせるのか、はっきりとはわからない。ところどころ、憂いのある言葉もあったように思うし、犯罪を防ごうとしてもいると思った。だが、何か、文体のせいなのか台詞のせいなのかわからないが、俺の金田一に対する印象は、名探偵である以前に無責任な職業探偵、となってしまったのだ。

主人公に肩入れ出来なくては、さすがに他の何を以ってしても物語が色褪せて感じられてしまう。

もちろん、それなりには面白く、読んでれば先も気になって、すぐに読み終わったのだが・・・でも、ねえ。

金田一耕助は俺のヒーローには当てはまらなかったようだ。

【ジーキル博士とハイド氏】100年以上前の話だったとは

つまり有名は「ジキルとハイド」です。

多少古い話だろうとは思っていたけど、よもや100年以上前(1886年)の作品だとは知らなかった。読み終えて、想像していた寓話的なものではなく、むしろSFミステリみたいなものだったと知り、尚のこと驚いている。

19世紀末、飛行機はまだ飛ばなかったが電灯もあればエンジンもあり、X線も発見されていた頃なので、薬品で人格を変異させるというアイデアくらいは出ても良いのかもしれない。それにしても。



読んだのは岩波文庫版。本編の最終章まで秘密にされている「ハイドは実はジーキルが変身した姿であった」という点が、表紙の1行目で勝手にネタばらしされているのが非常に不親切というか、少しは気を遣えよバカ、と言ったところである。

まあ、ジキルとハイドが同一人物というのは、さすがにいつどこでだかわからないが知っていたことだから読み進める上で興を削がれることにはならないが。

※以降、豪快にネタバレ


「ひとつ質問をするのは、石をひとつ転がすのと同じです。質問するほうは、丘の上に呑気にすわっていますが、石は転がり落ちながら、途中で他の石をいくつも動かしてしまいます。やがて、一人の実直な老人が自分の菜園で、その石のひとつに頭を打たれて死ぬことになるんです。」


ジーキル博士の友人であり、ハイド氏の秘密を暴くことになる若い弁護士に、友人が言った言葉だ。だから、余計な詮索をしていらないことに首を突っ込むのは慎め、と。

冒頭に近いところの言葉だが、なるほどなあ、と思った。そして、弁護士アスタンは、その忠告を聞き入れることが出来なかったために、確かに最後は老人が死ぬことになった。

だが、忠告を聞けていたら、老人は死なずに済んだのか?と問われれば、そうでもないだろう。いずれ破滅するものは破滅する。どの石がどう転がっても、誰も踏み入れない落石注意の崖下のような危険な場所に菜園なんか作ってケッタイなものを栽培してれば、そのうち石に打たれるのだろう。

というのが読後感である。



ところで、「ジキルとハイド」という慣用句?は、「同一人物の中の善人と悪人」と捉えられることが多いかと思うし、俺もそう思っていた。

だが、本編を読んでみると、これはどうやら間違っていたようだ。

つまり、ジーキル博士は、悪人なのだ。いかにも、慈悲の心を一片も持たず、己の欲望と感情と保身にのみ忠実な極悪人のハイド氏に比べれば、いささか一般人的な配慮を持っている。
だが、それでも一般的なレベルで見れば、十分に自己中心的で自己の保身に執着し、放蕩でありながら体面に拘る、けっして善人とは言えない人物として描かれている。

ジーキル博士が作った薬品は、本人の説明によれば、人を悪人に変身させるものではない。

個人の内部で対立している複数の人格の、いずれかひとつのみが肉体に対して支配的になる状態を作り出す、というものらしい。

だから、この薬品の効果により、神の如き聖人が顕れることもあるのだろうが、ジーキル博士においては顕れたのは悪鬼の如きハイドだったと。

ジーキル博士は、学問と慈善に尽くす紳士として振舞う一方で、隠れて破廉恥な享楽を求めずにいられないという困った人物であった。

だからハイドという人格(人格とともに、容貌も変わる)を手に入れたことに非常に喜んだ。だが、繰り返し薬を使うことで、徐々に、ハイドに肉体を乗っ取られて行く。

最後、ジーキル博士は顛末のすべてを手紙にしたためる。

もはや、薬がなくても意思と無関係にハイド氏に変身してしまう上に、ジーキル博士に戻るための薬は底をつき、再調合も出来なくなっていた。
ハイド氏はその後も元ジーキル博士の肉体を使って気ままに悪逆を尽くすかも知れないが、ジーキルという意識は二度と現世の肉体に宿らない。だとすれば、ジーキルは死ぬのだ、と悟って、遺書を書いたのだった。



肉体と意識と生と死の関係、テクノロジー(薬品)への依存と制御の喪失、そういったテーマに対して100年前とは思えない慧眼を感じた。

が、よく考えて見れば、その頃の、いやもっとずっと昔から人間は今と変わらず高度な思索活動を続けてきたのであって、今現在の世の中がすこぶる便利なテクノロジーで満たされているのは、現代人が1000年前の人間より優れているからではなく、人間という種が数千年にわたり知識を蓄積することが出来た結果なわけだから、わずか100年くらい前なら、このような話が書かれているのも道理とも思える。
いや、やはり先見の明はあると思うけど。


にしても、もっとも恐ろしいと感じたのは、やはりジーキル博士のそもそもの破綻した人格だろう。紳士の仮面と隠れた、しかし我慢の出来ない変態気質。

100年前のイギリスで描かれたこの人間の苦悩は、つまり、俺がつい1ヶ月前に近所の路上でたまたま見かけた、女装した中年男性(オカマとかニューハーフとかじゃない、女装露出趣味)を思い出すまでもなく、現代も同様かそれ以上に、人間を悩ませているのだと。


インターネットの普及は、人間が社会生活を送る上で秘めている性質の発露に貢献しているのは間違いない。正直に言って気持ちの悪い女装男のサイトを探すまでもなく、罵詈雑言に妄想妄言が溢れている。

それが悪いことかどうか、判断は難しい。隠されていることと存在しないことは違うからだ。しかし、とにかく、人間は二面性がある、というよりは、人間は隠している、近代に至りより多くを隠している、ということだけは確かなのだろうし、最近になって、その蓋があらぬ方向から少し開いて来た、ということも言えるのだろう。

ジーキル博士の薬には及ばないものの、それに近いものは、ブログやSNSのアカウントという形で手に入れられるのだ。

このブログも然り。

【涼宮ハルヒの消失】これは掟破りだろう

前に書いた通り、うっかり読んだ涼宮ハルヒの憂鬱が面白かったので、そのまま続巻を読んだ。

文庫として書き下ろされる長編の巻と、雑誌連載などで発表されていた短編をまとめた巻がだいたい交互になっているようだ。

短編は、それはそれで面白いが、それだけで読むと学園ドタバタストーリーに近い。最初の1冊が面白かったので読んだが、そうでなかったら俺はさほど興味を持たなかったかも知れない。

ただ、長編と繋げて読めば物語全体の伏線になってたりもして、最初の突拍子もない話に対して説明されなかった部分の謎解きみたいにもなっているから、そのまま読み進めた。

で、4冊目にあたるのが「涼宮ハルヒの消失」。



端的に言うと、涼宮ハルヒが消失する話というわけでなく、主人公である語り部の少年キョン、彼以外のすべてが消失する話だった。

消失すると言うよりは、周囲の世界がある朝すべて変わってしまうのだ。同じ家、同じ学校、同じ人々がいるが、少しだけ違う。自分が常々そうであれとぼやいていた通りの平穏な日々に、世界が変わってしまっていた。

そこから、主人公、常識人であり常識をこよなく愛するかのように振舞っていた主人公が、望みどおりの筈の、だけど改竄された世界で、元の鬱陶しい世界に価値を認め、帰って来るために奮闘するという話。

「大切なものは失ってみて初めてわかる」と言うような、言い古された格言を地で行くベタな展開だが、この作者の持ち味はそういうベタなところだと思う。ある意味純粋だ。

さて、シリーズの各巻をそれぞれ取り上げてないのに敢えてこの「消失」を再びここで取り上げたかというと、つまり、既刊をすべて呼んだ結果、この巻が非常に強く印象に残ったからだ。

あらすじを延々と書いても仕方ないので細かいことは書かないが、つまるところ・・・やはり、ベッタベタにベタな展開で、1冊目に同属と超絶バトルを演じた「無感情な宇宙人製アンドロイド」であるところの少女・長門をメインに据えた、ひどく切ない話になっているのだ。

人工的に作られた、感情の無い少女が、周囲との触れ合いの中で少しずつ、無かった筈の感情を獲得して行く。だが感情の獲得は同時に苦悩をもたらし、笑顔を知ると同時に悲しみを知ることになる、というお膳立ては、鮮やかなまでに、10年前に一世を風靡したロボットアニメ・・・つうかエヴァンゲリオン・・・つうか綾波レイを連想させる。

いや・・・ここで、こういう名前を出してしまっては俺もいよいよオタクの本流に腰まで浸かることになるのか、と危惧しながらも、日経新聞によれば日本人男性のうち100万人は綾波が好きだということだから、このくらいの注意の払い方は極めて普通人であると言っても差し支えないのだとも思うのでよしとしよう。

さて、そういうわけで、この「涼宮ハルヒの消失」の中核の成すエピソードも二番煎じだと言ってしまえばそうなのだが、それはアイデアレベルの話であって、料理の仕方はやはり違う。それが、非常にうまく行っていて、未熟な悲恋をスパイスにした少年の成長物語(こう表現するとこれまたベタだな)として爽やかな読後感をもたらしている。

いやあ、短く言っちゃうと本当アレだけど、しかし、やっぱシリーズとしてよく出来てる話だと思うよコレ。数冊まとめて買うときには余計に表紙が恥ずかしかったけど。



ところで、ここで開き直って、せっかくだから長門・綾波という「神秘的な無表情系」なキャラクターが、なぜ日経新聞の記者(しかも社説で)をトチ狂わせたりするほどに、コアな人気を獲得するのか・・・それを考察してみようと思ったが、そんなことを16000字くらい書いた日には俺もあっち側にお呼ばれしてしまいそうなので、止めておこう。

ただ、思うに、それはきっと、凄く青臭い言い方をすれば、と言うか青臭いことなのでそのようにしか言えないのだが、初恋への憧憬ではないか、と個人的には考えている。

恋に恋してなんかいない少女が、下心なんかない少年と出会って、自分でそれともわからないうちに、まだ恋とすら呼べない特別な感情を抱いて行く。それは何とも美しいではないか。タイピングしていて赤面したくなるくらいに。

現実では小学生だってエロ本を立ち読みし、大人の目が無ければ(実行は普通しなくても)ヤるのヤラないのと男女を問わずに下卑た話をする。いや、今時云々じゃない。きっと昔からだ。俺だって小学生の頃に友達とエロ本探しと称して藪を探検したりもした。

それはそれで、さほど不健全なものでも無いと思うが、しかし、高校生にもなれば男子の脳内はまともな片思いのひとつすらしていなくても「誰でもいいからヤラせてくれ」という欲求で満たされ、大学生になれば身体はもっと安売りされる。

いや、売春とかの話じゃないよ。それよりはマシなレベルの話をしているつもりだ。精神的な活動について言ってる。


ともあれ、それに対して、人工的である、という設定が保証する「完全に無垢」な状態から、主人公に心を開いて行く長門や綾波というキャラクター像は、まさに神々しいレベルの穢れ無さであり、そのエッセンスは、少しばかりの純粋さ或いは潔癖さを備えた男なら「思い出の1ページにそんな相手が欲しかった」と共感可能な要素であり、それはつまり女性における白馬の王子にも似た純粋な憧れのステレオタイプとなり得るものではないかと思うのだ。


あー。

結局そこそこ書いてしまった。
だが、これは俺が二次元キャラクターに偏愛を捧げているという意味ではない。文化的な考察だと捉えて欲しい。いやそう捉えてくれ。頼む。



それでも、俺は、幼い頃に漫然と見ていたアニメの中で、子供心に「かわいいな」と思ったキャラクターが、

・ハクション大魔王のアクビちゃん
・スプーンおばさんのルウリィ

であり、その他いろんな記憶をまさぐってみても、わずかに吊った目で無垢な雰囲気というヴィジュアルに共通項を見てしまうのは恐ろしい事実だ。

ちなみに、こんな世迷言を読んだらブチ切れそうな嫁も若干の吊り目であるから、そうか、俺はやはり正しくポリシーを貫いて生きてきたんだと、変なところで納得もした。