2008年10月19日日曜日

ビフテキ ― アクロス・ザ・ボーダー



今日は、ビフテキだ。やっほう!

え?ビフテキって言い方は古いかい?

じゃあ今日はステーキだ!ひゃっほう!

え?今更ステーキくらいで喜ぶ時代じゃないって?


俺は喜ぶよ。肉料理で一番ステーキが好きだからな。


肉は、昨日の夜にスーパーに食パンを買いに行ったら発見した見切り品。消費期限が本日までで半額の国産牛(和牛ではないらしい)肩ロースステーキ305g@454円。お得じゃね?

ステーキなので作るのは簡単だ。焼くだけだ。

とは言え、もちろん塩と胡椒は必要だ。塩の代わりにクレイジーソルトを使う。とりあえずこれ使っとけば味が複雑になる。さらに、塩を足す代わりに科学の力、旨み調味料=味の素を振る。
こういうのを邪道と言うグルメな方も多くいらっしゃるようだが、俺は常に最高級の肉を食えるほどブルジョワじゃないんだからして、かけて旨くなるもんならかける。だいたい、アミノ酸の集合みたいな肉体で生きていてアミノ酸を添加することに何の抵抗も俺は感じない。


さて、しかし問題はやはり焼きだ。

あっためたフライパンにドカっと乗っけて、下面がほどよく焼けたらひっくり返してしばし。側面を見ても赤くなくなって来たし、ああ、これ以上焼いたらスカスカボソボソのウェルダーンになってしまう、とあわてて皿に移動。

ちなみに付け合せは、横で焼いていた冷凍ミックスベジタブルのみ。主食は食パン。いい。俺の妄想する欧米的食事そのもの。こういうの好き。

焼いてから、タレを作ろうと、ケチャップとソースをフライパンに適当に入れたが、なんとなくしょう油も足して挙句にバターまで乗っけてしまった。コッテコテここに極まれリだ。

だが、焼きに関しては俺は欧米人の固焼き傾向は受け入れられない。とにかくレアだよ。ロウ・フィッシュを常食する日本人としては、牛肉も半生こそ至高。

で、焼き過ぎてないよなあ、とドキドキしながら食ってみると・・・ンン!ベリナイス!

肉断面の上下1/3が焼けており中1/3は赤い、みたいな。俺的にベストな感じだ。

だがしかし、徐々に食い進み、端っこの、ちょっと厚みがある部分に差し掛かると・・・中身が、完全に赤い。さながらサシミよ。マグロ赤身と言われたら信じるくらい赤い。賞味期限もボーダーいっぱいなのに、こんなの食って大丈夫なんだろうか・・・?

実は、ステーキを焼くとしょっちゅう味わうこのスリル。結局、「まあ、外気に触れてたところに火が通ってりゃOKだろ」ということで食す。・・・実に柔らかい。そりゃそうよ、生だからな。美味い。けど少し不安・・・。


でも、今まで、牛豚鳥の肉の火加減で心配になったことはあるが、自分の料理で腹痛くしたのは、生焼けの秋刀魚を食った時だけなので、きっと俺の判定は大丈夫なんだろう。

でもちょっと心配・・・今度からもうちょっとよく焼こうかな・・・。

【マタンゴ】キノコ人間の恐怖、思いの外に名作

マタンゴー。

巨大キノコ、キノコ人間と言えばマタンゴ。それはもう中学生の頃から常識として知っていたが、実際にこの映画は見たことなかった。存在は知っていたけどあらすじも知らなかった。

それをツタヤでたまたま目にしたから見てみることに。

正直、期待はしていない。



昔の力作みたいだし、キノコ人間というネタが面白いから名高いだけで、まあ、昔なら少し受けたような安い特撮だろうと。でもレンタル半額だから見てやるか、くらいの。

で、期待せずに、メシを食いながらチラ見してたら、なんだよ!おもしれえよ!

1963年公開って、かなり古いんだけど、DVD向けになんかしたのか、画質は良い。で、嵐の海や難破船、無人島にキノコの特撮(敢えてSFXと言わず)が、思いの外にクオリティ高い。もちろん、現代のアレコレに比べればチープだが、第二反抗期のヒネクレ小僧みたいな見方をしなければ、十分に魅せてくれるレベルだ。当時の流れか、やや劇画チックな演技もまた良い。

因みに古い映画、特に邦画は、登場人物のファッションのダサさが目に余ることが多い気がしていたが、きっと流行が2周りくらいしてタイミングが合っているのだろう、意外とオシャレに見えてこれもまたよい。・・・まあ、一部の人物の、短パン(ハーフパンツじゃなくて短パン)に白ハイソックス(の、おっさん)と言うのなどは時代を感じるが・・・。


それにしても、ストーリーがまた良い。というか、これがかなり想像以上。もっとこう、荒唐無稽な話かと思っていたら、難破した7人の男女・・・これがまた、そもそも遭難する前から、「このクラスでは一番金のかかったヨット」でバカンスする御曹司や文化人など、「自分たちは陸にウロウロしているチンケな一般人とは違う」と言う勘違いな特権意識丸出しの連中で、もちろんその中では仲間の振りをしているが実際には見えざるヒエラルキーがあり、嫉妬と不信が渦巻いている。

いざ遭難すれば、自分だけが助かろうとするエゴ丸出しで無茶をするのが続出で、人間模様が実にうまく描写されている。というか、それが話のメインだね。キノコ人間は小道具に過ぎなかったようだ。

そして、予想を裏切る衝撃的な結末もまた良い。いやこれ、本当に良く出来てるよ。ネタとしてでなく、普通に名作として鑑賞できる映画だ。

【ピーカン夫婦】文化か猥褻か

夫婦の間の倒錯した性生活をネタにしたシリーズもののビデオの第5作らしい。

と言ってもいわゆるAVではない。俺がAVを絶対に見ないとは言わないが、見たとしてもそれをこここでいちいち発表はしない。

これは・・・なんつうかピンク映画?エロティックドラマ?どう言っても、AVっぽいが、まあ、本作品はツタヤで、端っこのキッズが侵入してはいけない小部屋に隔離されているソフトではない、ということがそのポジションを語っているだろう。

ビデオのシリーズだが、この作品は劇場でも公開されて好評だったらしい。というか、その頃の寸評か何かを見かけたのが記憶にひっかかってたので借りた。




倒錯した、と言ってもいわゆるSMやスカトロや近親といったものではなく、普通は思いつきにくい性癖のこと。この作品では、青姦しか出来ない、それが好きなんじゃなくそれしか出来ないような女が登場。

人付き合いの下手なレコード会社の業界人が、内向きで非社交的な自分を変えたいと願い、変わって行くというのが話の骨子。その彼が出会い、結婚するのがその”外でしか出来ない女”なわけね。

エロシーンは数回登場するが、そう過激なものではない。むしろ、絵としてはどぎつさを除き、きれいに撮られている。とは言え、女が思い切り腰を振るような場面は、地上波のテレビでそのまま流せるレベルではないだろうが・・・。

評判通り、話は意外にも、なかなか面白い。
でも、この話からエロシーンをカットしたら、残りの話だけで楽しいか?と言われると微妙。しかし、もしもカットしたエロシーンの代わりに、メインのストーリーがもう少し掘り下げられたら、それでも十分に見ごたえのある話になるかも、とも思えた。


性に関わる物語を描くのは、なんのやましいところのあるものでもない。恋愛だって性があればこそ。キスや抱擁で終わる恋愛ストーリーにだって、暗黙の続きはあるわけで、あとはそれを画面に描くか否かだけの差とも言える。
それに、何だかんだ言っても、性衝動というのは、もっとも制御しがたい感情のひとつであり、もっとも普遍的な感情のひとつでありながら、もっとも抑圧されるものであるから、これはひとつ、何か描くには良い材料であるのは間違いないのだ。

とは言え、それを見せれば”エロ”であり、見せなければ”純情”だ。同じようなストーリーの、見せている部分が違うだけなのに。

同じ対象を見ても、見る者は全てを見ることは出来ない。そして、見る部分は人により違うから、同じ者を違うように受け取る。

そう、だから、エロシーンなど無い作品を見ても、脳内で濡れ場を補完できる人間は少なからずいるのだ。端的には、ある種の同人誌とかにそういうものを容易く垣間見ることが出来るだろう。

そしてそれが可能ならば、逆もまた可能なはずだ。

つまり、始まった瞬間から終わる瞬間まで何10分もひたすら濃厚なプレイしか無いようなハードコアなエロビデオを見て、その行為に至るまでの大恋愛を想像することもまた出来る筈なのだ。

・・・誰もそんなことしないだろうがな。俺もしようとも思わんしな。




まあ、そんなことはネタ話に過ぎないのだが、”健全な”映画と、”不健全な”映画の境界というのは、思うよりも複雑なものだと。

2008年10月16日木曜日

【狂骨の夢】意外にも爽やか

京極堂シリーズは、遅ればせながら「姑獲鳥の夏」を読んでから、立て続けに読んだ。

姑獲鳥の夏は面白かった。戦後の混乱を背景にしつつ、何せ京極堂、関口、榎木津、木場、敦子、といった主要キャラの登場シーンの連続だけでも十分に楽しいし、また、妊婦/産科という・・・母と子の、幸せと無垢の象徴でありながら、ある種の非日常さを持つ存在を軸に、恐ろしくも悲しくそれでいてどこか美しい舞台は、甚だ魅力的だった。

で、その次の「魍魎の箱」(ハコの字変換で出ない)では、若いキャラクターを軸に、ナイーブな強面・”鬼の木場修”のロマンスも絡みつつ、京極堂の苦い過去もちらりと覗かせつつ、1作目とはまた少し違う雰囲気で面白かった。

で、この3作目。



今度は、魍魎の箱で、オマケ程度に登場していた”いさま屋”のトボけた味わいと、ゲストヒロインの朱美を軸に話は展開する。

最初は、おなじみの面々を差し置いて”いさま屋”の話が延々と続き、もの足りなさを感じた。が、話が進むにつれ、そのいさま屋と絡む(いや物理的にでなく)朱美の魅力が際立つ。謎多き女であり、暗い過去を背負っている様子でありながら、どこかサバサバとして気持ちのいい人物で、最初の怪しい登場から、読み進めるにしたがって、「この人が悪い人ではないように」という気持ちを抱かせるような。

その彼女の人物を浮き上がらせるのに、京極堂や関口のような濃いキャラではなく、トボけたいさま屋が適役なのだろうと、結局は理解した。

最後に大どんでん返しとかって感じよりは、徐々に徐々に「あれ?もしかして、こういうことか?だとしたら、なるほど、そういうことか?」と、事件の全貌を予想させておいて、最後に、そのもやっとしたものを、どうしようもない程にザクザクと切り刻み、白日の下にさらして「不思議なものなど何ひとつない」状態にしてしまう為に京極堂が現れる、と言うのはいつものパターン。

でも、今作は、前の2作品に比べると、いささか読後感がすっきりと明るい。それはやはり、朱美のキャラクターのせいだろうと思う。

怪奇譚が好きな一方でハッピーエンドが好きという、自己矛盾的な嗜好を持つ俺にとっては、狂骨の夢は、京極堂シリーズの中でも良い印象の作品となった。

もっとも、何人も死んでるしハッピーなわけじゃないんだがね、程度の問題というか比較の問題でね。

リボルビング払いの誘惑

最初は、男らしい料理の記録を備忘録的に書こうと思って作ったブログだったのだが。
次いで、ちょうど暇になって、それまであまり縁がなかったTSUTAYAの会員になりDVDを続けて見たから映画の感想を書こうと思い、映画より本の方がと読書感想文?を書き。

もう、普通にブログとして何でも書けばいいや、とね。




俺はクレジットカード万歳派だ。

使える限り積極的にカードを使う。コンビニやスーパーで数百円の買い物でも、カード払いだ。

理由はいくつかある。

・小銭が溜まったりしない。お釣りのこととか財布の中身とか考えなくていい。
・銀行に行ってお金を下ろす必要もない。
・ポイントも溜まる。

良いことずくめだ。

社会人になってから特にカード利用が増えている(コンビニやスーパーのサインレス対応が進んだのも要因だ)ので、年会費無料のセゾンカードで、今まで何万円分の商品券をもらったかわからん。

俺はセゾンにはビタ一文とて利益を与えていないと思う。なのに、便利な思いをして、尚且つ金券まで貰ってる。世の中には美味しい話というのもあるものだ。



さて、しかし実際には、セゾンだってボランティアで俺に便利を提供してくれているわけじゃない。


ことあるごとに、ご案内が届くのだ。

「大切なお客様へ」

「ゆとりのサービスを」

「ご利用ください。」

「計画的で無理のないお支払い方法です」

「やりくり自在の『リボ』をぜひご活用いただき」



とにかくリボルビング払いを使わせたくて仕方ないらしい。

一応説明しておくと、これは、月にいくら使っても、毎月同じ金額の請求が来る、つまり多く使った月の分が少なく使った月の請求に回されるという仕組みだが、ひらたく言えばローンみたいなものだ。当然、利子が付く。で、この利子こそがセゾンの利益だ。

だから、カード会社は執拗にリボを使わせようと、いかにリボが賢く計画的でゆとりを生むかを月に数回はDMなどで訴えてくるわけだ。

でもさあ。

多少出費がかさむ月があったからって、リボじゃないと払えないなんて時点で、人間として計画的じゃないしゆとりもないし、もちろん賢くもないし、やりくり上手でもないよなあ。どう考えても。本当に欺瞞だと思う。


で、結局、俺は今まで、学生の頃から10年以上クレジットカードを愛用しているが、「一括払い」以外の利用をしたことがない。一括払いには、一切の利子も手数料もないから、実際、俺は今までカード会社に1円も払ったことがない。年会費有料のカードも持ってないし。

なのに、今もまた2万円分くらいはポイントが貯まっている。

いやあ、くだらん甘言にさえ耳を貸さなければ、世の中にはうまい話も無いではないな。

2008年10月13日月曜日

【ハイペリオン】まさかの結末

なぜ、ハイペリオンを読もうと思ったのか?それは訊かないでいただきたい。

訊かないでいただきたいが敢えて言ってしまえば、「長門有希の100冊」に拠る。ああ。



まあ、もともと、SFは好きだ。あんまり読んでないが。”幼年期の終わり”とか、高校の図書館で読んだ覚えがある。

さて、洋物SF。何せ、萌え要素は無い。出てくる主要人物は、不健康そうな老人ばかり。ヒロイン的な女性もいるが、アメコミやハリウッド映画のヒロインにありがちなゴツく、あからさまにタフで、唇をひん曲げて歯を食いしばり、汗と血に塗れて叫びながらマシンガンをぶっ放す姿が似合いそうな女性であるから、つまり徹頭徹尾きな臭い。可憐さの欠片もない。

だが、もちろん、そんなものはなくても、面白いものは面白い。

舞台は29世紀。その世界観やテクニカルタームについて、本当に最低限の説明しか無く話が進んでいくので、最初はなんだかよくわからない。

物語の核は、”シュライク”なるこれまた何だか正体不明な怪物(の生息地?)を”巡礼”することになった7人が、道中で語る自らの物語だ。

その巡礼というのは、まあ非常な困難・・・十中八九死ぬような・・・を伴うのだが、そのようなことにチャレンジする理由を、それぞれが語るわけだ。

だから、話者が変わると、ものの見方も変わる。とりわけ、大きなキーになっている”シュライク”に対する捉え方が、まったくと言っていいほど違っている。

つまり、それぞれの登場人物の物語は、それぞれの一人称で書かれており、それ自体、独立した話として読めるようになっているという構成だ。

で、実際、読んで見ると。

最初の2章くらいは、それぞれ話としては面白いから読んでいられるが、そこまで面白いかなあ、という感じでふむふむと読む進めていた。

それが、いくつかの物語を読み進めるにつれて、もやもやしていたものが、もやもやしているなりに何かひとつの形をとり始めて、興味がいや増して行く。

謎が解けてきてすっきりするんじゃなくて、謎の正体が見えて来てその解は見えず、ますます先が気になってるくる感じで、上巻の後半くらいからはもう、わずかな時間があれば読み進めるという状態だった。


で、最後の物語で、いろいろと驚きの種明かしはあるのだが、その終わりが・・・少年ジャンプの打ち切りマンガよろしく、「というわけで、みんな!行くぜ!」で終了みたいな感じで、ある部分は落ちているのだが、それ以上に大きな問題がまったく未解決なままで終わってしまう。

え!?ここで終わりかよ!?嘘だろ?

と言うのが読後感である。



で、実際、嘘なわけで、「ハイペリオンの没落」という続編がきっちり用意されているのであった。

続編は、読んでみようと思う。




*   *    *

さて、本編とは関係のないところでひとつ。

そもそもこの本を知ったのは、冒頭で述べたように、先に呼んだ「涼宮ハルヒの憂鬱」のせいだ。その作中で、読書好きの”情報統合思念体によって作られた対有機体用ヒューマノイドインターフェース”なる長門が、語り部・キョンに貸したのがハイペリオンなのだ。

で、そのハイペリオンを読んでみて、なるほど、ハルヒの作者は、ハイペリオンをヒントにしてこの作品を書いたのかなと思った。

そもそも、一部では”真の主人公”とも言われる”情報統合思念体によって作られた対有機体用ヒューマノイドインターフェース”長門だが、ハイペリオンには、”テクノコアのAIのサイブリッド”ジョニィなる人物が登場する。

彼は、人類から独立を勝ち取ったAIが、人類社会に紛れ込ませたインターフェースであり、AIの中の”穏健派”に属し、”急進派”に命(存在?)を狙われ、そして人間になることを願って反乱を起こす。これは、かなりの部分で長門とかぶる。

そして、詩人サイリーナスが語る、「初めに言葉ありき」。彼は、彼が詩に書いたためにシュライクなる異形が現れたと語った。それは、「思ったことが現実になる」というハルヒのモチーフとなり得る。

そして、シュライクなる謎の存在を軸にして語られる世界観が、それぞれの登場人物の立場によって異なるものとして捉えられていることも、「涼宮ハルヒの憂鬱」の舞台設定に通じる。

もちろん、だから涼宮ハルヒはハイペリオンのパクリだ、などと言いたいわけではない。そうであれば、作中でハイペリオンを出したりしないだろうし。十分に、別の話として昇華されている。

そもそも、ハイペリオン自体も、いろいろと元ネタはあるそうだ。あとがきにそう書いてあった。

ただ、そういう製作サイドの台所事情というのを垣間見るのも、時に興味深いものだなと思った。

とは言えもっとも、俺は評論家になりたいわけじゃないから、やはり読んで面白いかどうかが問題なわけで、それが他の何に影響を受けているかなどは、あくまでもおまけ情報以上にはなり得ないのだが。


*   *    *

最後に。

ハイペリオン、面白かったが、カバーイラストはイマイチだと思うね。
メインキャラが爺ばかりなので絵として地味になるのは仕方ないが、そんなあからさまに爺でなくてももう少し渋い描き様もあったろうに、というのと、レイミアがごついのはともかく女だと気づくのすら難しいというのと、背景のシュライクが、俺の考えではもっと美しくカッコいいものだと思うのだが、という不満がある。

スペース的なものも考慮すると、描くのは、シュライクだけで良かったか、それとも敢えてシュライクは描かず、ストーリーテラーだけを(モニータとかジョニィとか抜きで)緻密に書くかすれば良かったんじゃないかなあ。狭いスペースに総動員で、なんか古いアニメのOPテーマの最後のカットみたいなチープさを感じる。残念。



【ブレイブ・ストーリー】端折りすぎ

小説の方を読んでから、暇もあったので映画の方も見てみることにした。



メインキャラクターの絵などは、映画化の際のポスターで小説を読むより前に見かけていたから、あまり違和感ない。
けど、ちょっと脇役になると結構違和感あった。とは言え、脇役は、小説ではかなり重要な役割をしていたが、映画ではほんとに脇役だったので、違和感などあろうとなかろうとあまり関係ないとも言える。

そう、キ・キーマやミーナ、カッツにトローンといったキャラクターは、本当にただの脇役に成り下がっている。それぞれが抱える葛藤もドラマもすべてすっ飛ばされている。

そして、それはワタルとミツルについても同じ。

ワタルとミツルの、現世での生活の描写が大幅に割愛されているため、それぞれが、どういう、どれほどの決意を秘めて幻界に”運命を変える”ために旅立つのか、その重みが伝わりにくい。

人柱を巡る不安、絶望という物語後半の核と言える部分はきれいサッパリ省略されているし、中盤の転機となる、父親との、そして自分との葛藤も、仄めかす程度で終わっている。


正直、文庫で十分な厚みのある3冊分の話を2時間枠に押し込むのに無理があったのではないかなあ。

せっかく作画などは別に文句をつけたいとも思わないクオリティなのに、話がひどく薄っぺらで、先に原作を読んでいればまだ良いが、そうでないと、ストーリーに着いて行くことすら困難だろう。

もし、原作未読でこの映画を見て、期待ほどじゃないと思った人がいたら、映像のイメージだけ受け取っておいて、原作を読んで見ることを進める。もったいない。

【ブレイブ・ストーリー】残酷な物語

これを読もうと思ったきっかけは何だろうな。

これまでも、適当に思いついたものを手にとっているだけだが、適当に思いつくというのはつまりそれなりの理由があるということだ。

今回はアレだな、たぶん。

まず、俺はそもそもファンタジーは好きだ。とんとご無沙汰だが、ファイナルファンタジーはXIIまで、ドラゴンクエストはVまではやった。指輪物語は映画化前に読んでいたし、その前身の「ホビット」は原著で読んだくらいだ。

で、ブレイブ・ストーリーの作者、宮部みゆきは、俺がここのところ立て続けに読んだ京極夏彦と同じオフィスに所属しているようなので、最近ちらちら名前を見ていた。そして、この作品の映画化が少し前にあったから、その作品名も記憶していた。


そんな感じで、「まあ、それなりにヒットしたからには面白いんだろう」くらいの期待で手に取った。



なんとなく、少年がファンタジー世界で冒険する物語ということは知っていて、まあ、大人も楽しめる少年向けのお話かと気楽に構えて読み始めた。

ところが。

文庫版なので、上・中・下の3分冊だが、その上の大半が終わるまで、主人公はファンタジーな世界での活躍をしない。剣も魔法も殆ど無い。

では、何が描かれているのか?

それは、小学生の主人公の日常と心理の描写である。だが、それは、往々にして大人がこうであれと思うような、都合よく無垢で鈍感にデフォルメされたものではない。

理想の家庭を築こうとするあまり視野狭窄に陥り、”中流”な自分に比べて”品の無い家庭”の子どもやおじさんを卑下して息子から遠ざけたがる母親。

家庭から心が離れてしまった、理屈屋の、”大人の考え方”を盾にしてその実は甚だ子ども染みた身勝手を行う父親。

嫁を孫を傷つけても、最後は息子が可愛い祖母。

小学生を生活にだって否応なく存在する、同級生、上級生、そして父母の影を交えた政治的な現実。

無力で脆弱だが、大人の事情だって決してわからないわけではない―例え、それを理路整然と説明は出来なくても肌は感じている―子どもの葛藤。


もう、痛々しいことこの上ない、いや、むしろリアル過ぎてドライなまでの、子どもの苦悩の描写が続く。

読み進めながら、あれ、おかしいな、冒険活劇じゃなかったのか?という疑問やじれったさを感じる一方で、主人公・ワタルの至らないながら痛みを伴う現状把握に、そう、そうだよなと。

俺だって、そりゃまあ普通と言える家庭には育ったが、小学生も後半になれば、大人が、親も、先生も、決してすべてにおいて正しい人間ではなく、明らかに誤った知識を持ち、誤った思考をし、そして政治的、暴力的な力の上下関係の中で不正に屈服しながら、自己正当化と保身に身を砕きながら、そのくせ俺の―子どもの前では、自分はすべてにおいてお前よりは正しいのだと言う顔をして説教を垂れ、それが破綻すれば暴力で威嚇して無理を通すと、そんなことには薄々、時にはっきりと、気づいていた。

それでも、そんな大人の欺瞞に対して、暴力で対抗する体力も、理屈で論破する知力も足りなかったから、ごめんなさい、僕が間違っていました、もうしませんと頭を垂れなければならなかった。その時流していた涙は、怒鳴り声や拳骨が怖かったからでも、自分の過ちを悔いていたからでもない、ただ、その大人を説き伏せられない、殴り倒せない、自分の無力が悲しくて口惜しくて涙が溢れていたのだ。

と、まあ、そんなこともきっと、みんなそうだったのだろうなあ、と自分が大人になった今は笑って許してやろうかと思っているが、それでもその気持ちを覚えているから、ワタルの家庭が破綻していく中での葛藤の描写には、ぐいぐいと引きこまれた。


さて、中巻以降は、ようやく幻界なる異世界での冒険となる。剣と魔法と異形の世界だ。

しかし。

ここで描写されるのも、差別、貧困、政治と腐敗、信仰とカルト。そして個人の内なる悲しみと憎しみ。目的の達成とその代価。誰かの幸せと他の誰かの不幸。

冒険活劇としての盛り上がりも十分ではあるが、それにしてもその背景は徹頭徹尾、シビアな話の目白押し。


これは、想像していたのとは違った。もっとライトな話だと思っていたのに。

しかし、それはつまり、想像していたのより、ずっと面白かったということだ。


小学生が、異世界へと旅立って冒険をする。と、短く言ってしまうにはあまりにもったいない話だ。

みんなの全ての苦しみを取り除くようなことは出来ない、という残酷な回答。しかし、それは同時に、人は苦しみすらも我が物として乗り越えることが出来得るという希望でもあると。