なぜ、ハイペリオンを読もうと思ったのか?それは訊かないでいただきたい。
訊かないでいただきたいが敢えて言ってしまえば、「長門有希の100冊」に拠る。ああ。
まあ、もともと、SFは好きだ。あんまり読んでないが。”幼年期の終わり”とか、高校の図書館で読んだ覚えがある。
さて、洋物SF。何せ、萌え要素は無い。出てくる主要人物は、不健康そうな老人ばかり。ヒロイン的な女性もいるが、アメコミやハリウッド映画のヒロインにありがちなゴツく、あからさまにタフで、唇をひん曲げて歯を食いしばり、汗と血に塗れて叫びながらマシンガンをぶっ放す姿が似合いそうな女性であるから、つまり徹頭徹尾きな臭い。可憐さの欠片もない。
だが、もちろん、そんなものはなくても、面白いものは面白い。
舞台は29世紀。その世界観やテクニカルタームについて、本当に最低限の説明しか無く話が進んでいくので、最初はなんだかよくわからない。
物語の核は、”シュライク”なるこれまた何だか正体不明な怪物(の生息地?)を”巡礼”することになった7人が、道中で語る自らの物語だ。
その巡礼というのは、まあ非常な困難・・・十中八九死ぬような・・・を伴うのだが、そのようなことにチャレンジする理由を、それぞれが語るわけだ。
だから、話者が変わると、ものの見方も変わる。とりわけ、大きなキーになっている”シュライク”に対する捉え方が、まったくと言っていいほど違っている。
つまり、それぞれの登場人物の物語は、それぞれの一人称で書かれており、それ自体、独立した話として読めるようになっているという構成だ。
で、実際、読んで見ると。
最初の2章くらいは、それぞれ話としては面白いから読んでいられるが、そこまで面白いかなあ、という感じでふむふむと読む進めていた。
それが、いくつかの物語を読み進めるにつれて、もやもやしていたものが、もやもやしているなりに何かひとつの形をとり始めて、興味がいや増して行く。
謎が解けてきてすっきりするんじゃなくて、謎の正体が見えて来てその解は見えず、ますます先が気になってるくる感じで、上巻の後半くらいからはもう、わずかな時間があれば読み進めるという状態だった。
で、最後の物語で、いろいろと驚きの種明かしはあるのだが、その終わりが・・・少年ジャンプの打ち切りマンガよろしく、「というわけで、みんな!行くぜ!」で終了みたいな感じで、ある部分は落ちているのだが、それ以上に大きな問題がまったく未解決なままで終わってしまう。
え!?ここで終わりかよ!?嘘だろ?
と言うのが読後感である。
で、実際、嘘なわけで、「ハイペリオンの没落」という続編がきっちり用意されているのであった。
続編は、読んでみようと思う。
* * *
さて、本編とは関係のないところでひとつ。
そもそもこの本を知ったのは、冒頭で述べたように、先に呼んだ「涼宮ハルヒの憂鬱」のせいだ。その作中で、読書好きの”情報統合思念体によって作られた対有機体用ヒューマノイドインターフェース”なる長門が、語り部・キョンに貸したのがハイペリオンなのだ。
で、そのハイペリオンを読んでみて、なるほど、ハルヒの作者は、ハイペリオンをヒントにしてこの作品を書いたのかなと思った。
そもそも、一部では”真の主人公”とも言われる”情報統合思念体によって作られた対有機体用ヒューマノイドインターフェース”長門だが、ハイペリオンには、”テクノコアのAIのサイブリッド”ジョニィなる人物が登場する。
彼は、人類から独立を勝ち取ったAIが、人類社会に紛れ込ませたインターフェースであり、AIの中の”穏健派”に属し、”急進派”に命(存在?)を狙われ、そして人間になることを願って反乱を起こす。これは、かなりの部分で長門とかぶる。
そして、詩人サイリーナスが語る、「初めに言葉ありき」。彼は、彼が詩に書いたためにシュライクなる異形が現れたと語った。それは、「思ったことが現実になる」というハルヒのモチーフとなり得る。
そして、シュライクなる謎の存在を軸にして語られる世界観が、それぞれの登場人物の立場によって異なるものとして捉えられていることも、「涼宮ハルヒの憂鬱」の舞台設定に通じる。
もちろん、だから涼宮ハルヒはハイペリオンのパクリだ、などと言いたいわけではない。そうであれば、作中でハイペリオンを出したりしないだろうし。十分に、別の話として昇華されている。
そもそも、ハイペリオン自体も、いろいろと元ネタはあるそうだ。あとがきにそう書いてあった。
ただ、そういう製作サイドの台所事情というのを垣間見るのも、時に興味深いものだなと思った。
とは言えもっとも、俺は評論家になりたいわけじゃないから、やはり読んで面白いかどうかが問題なわけで、それが他の何に影響を受けているかなどは、あくまでもおまけ情報以上にはなり得ないのだが。
* * *
最後に。
ハイペリオン、面白かったが、カバーイラストはイマイチだと思うね。
メインキャラが爺ばかりなので絵として地味になるのは仕方ないが、そんなあからさまに爺でなくてももう少し渋い描き様もあったろうに、というのと、レイミアがごついのはともかく女だと気づくのすら難しいというのと、背景のシュライクが、俺の考えではもっと美しくカッコいいものだと思うのだが、という不満がある。
スペース的なものも考慮すると、描くのは、シュライクだけで良かったか、それとも敢えてシュライクは描かず、ストーリーテラーだけを(モニータとかジョニィとか抜きで)緻密に書くかすれば良かったんじゃないかなあ。狭いスペースに総動員で、なんか古いアニメのOPテーマの最後のカットみたいなチープさを感じる。残念。
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