2008年9月29日月曜日

【クライマーズ・ハイ】谷川岳に登りたくなった←単純

少し前、夏に読んだのだが。

クライマーズ・ハイって言うくらいだから、登山家が遭難でもする話だとばかり思っていた。表紙は知っていて、そこに山が描いてあったし。小さく飛行機が飛んでいることはワンポイント程度のものとしか思っておらず。

実際には、これは御巣鷹山の日航機墜落事故の話だった。



と、いうことを知ったのは、この夏に映画が公開されるにあたり、CMを見たからだ。


そうと知って、ちょっと興味を覚えた。あの事故の時、次々とニュース速報が流れ、やがて特別番組が組まれて行くのを、俺は子ども時代の思い出として記憶している。

家族と「行方不明」と繰り返されるテロップを見ながら、小学生ながら現実志向だった俺は、「いや、どう考えてももう落ちたよ、ジャンボ機が行方不明なんかない」と軽く興奮しながら他人事のようにヘラヘラと語ったものだ。実際他人事だしな。

数日後、当時勢いのあった写真週刊誌がこぞって事故現場の写真を掲載すると、クラスに一人二人はそれを購入して学校や友人宅に持ってきて、「こえー!」「死体が写ってる!」と大騒ぎだったのを覚えている。

芸能人が自殺した時もそうだったが、俺は、しかし、そういう写真を楽しく眺める気にはならなかった。一応、ちらりと目に入れたような気がする。しかし、何が写っていたか、まったく記憶がない。白黒写真で、山だった。それしか覚えがない。

俺は忘れ物などは多いが、結構古い子ども時代の記憶もしっかり持っている方だと思う。でもその写真の内容は、枯れ木の山の白黒写真、としか覚えていない。そんな筈はないのだが。拒否していたのだと思っている。

俺は、500人からが死んだって、他人事の事故ならば、いつでも地球上では大勢の人間が死んでいる、ちょっと場所とタイミングが偏っただけ、と思うことも出来る。そういうつもりだった。しかし、写真に個人の死体を認めたら、その事実を、どこか遠くの話として置いておくことが出来なくなる気がしたのだろう。

ま、そもそも、交通事故現場も何も見るのは嫌いだったから、単に死体が怖かったのかも知れない。


さて、そんな遠い思い出もあるこの、史上最悪な航空機事故。

この作品は、この事故そのものではなく、事故を追う地方新聞社の内幕を描いたドラマだ。


正直、常日頃から、事故や災害を取材する新聞社を始めとするマスコミには、反吐が出る思いだ。報道の自由だの知る権利だのと美辞麗句を並べ、やっていることは、部外者が知る必要もないような不幸を晒し者にするために、苦境にある人々の心に土足で踏み込む屑どもだと思っている。実際、心どころか被災者の家に土足で踏み込むような連中も少なからずいるらしいしな。

それを、せいぜい小奇麗にまとめるつもりなんだろうか・・・と、そんな疑念も持ちながら読み始めると、これが全然違っていた。

全然、綺麗ではない。まさにその問題を突いていた。功名心とエゴを小賢しい理屈で武装する記者。しかし、それだけなわけでない、理由があれば何をしても許されるわけではないが、しかし理由もなく非道を行うわけでもない、と、そんなことが描かれているように思えた。


話が始まった頃には飛行機はもう落ちていて、舞台の大半は新聞社のビル内。ある意味で、とても地味。しかし、最後まで、非常な緊迫感をもって話はぐいぐいと展開する。その一方で、過去に傷を持つ友人、すれ違ってしまった息子との対話、そういったものが緩急を与えているから、途中で飽きたりもしなかった。

それに、飛行機は最初から落ちちゃってるから、500人からの犠牲者は生き返りはしないし、それはそれで暗い陰となるのだが、それでも読後感は爽やかという、随分アクロバチックな話になっている。それが凄いと思った。



ま、そう、結論を短く言うと、とても面白い。

あまりに面白かったので、映画を見るのは止めたくらいだ。これでは、2時間くらいの映像では、劣化コピーにしかならないんじゃないか、と思って(見てないから実際どうだかは知らない)。


そう、この小説は素晴らしい。



だが、それだけじゃなかった。

読み終わってから、事故に関する情報を改めてちょっと調べた。Wikipediaなどで手っ取り早く。そうしたら、とても辛い気持ちになった。小説とはもう切り離れたところで、つらさを感じた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%88%AA%E7%A9%BA123%E4%BE%BF%E5%A2%9C%E8%90%BD%E4%BA%8B%E6%95%85
↑外部リンクなどまで見てしまう激しく辛い

挙句、生存者の証言まで読むにあたって、仕事中にも関わらず、俺は終に落涙した。



どうしようもなく絶望的な状況で、自分に何の咎も無く、また何の術もなく、それでも人間は、人間足り得る。自分ではなく、他人の心配をしてやることが出来る。そして、一縷の、本当に僅かな、それこそ奇跡としか呼べない希望を、捨てないでいることも出来る。

改めてこの事故の手記や遺書を目にしたとき、俺は人間の気高さというものに対し、畏怖に近い感動を覚えた。

もちろん、事故自体は、あってはならないものだった。全国のお茶の間の涙を誘うためなんかに500人からが命を投げ打ったわけじゃない。

それでも、その痛みは、また少し人間を、知性を持ってしまった以上あるべき姿に近づけたのだと思う。

20年以上が経ち、あまり大きな犠牲を代償に得た教訓は、完全に活かされているとは言えないのだろうが、しかし、何にもなっていないわけじゃない。



最後に、事故現場は、当時「御巣鷹山」と言われていたが、正確には「高天原山」だそうだ。

”高天原”といえば、神話において神々の住まう処であろう。そんな地名が何の鎮魂になろうか、とも思うが、それでも、せめて。

2008年9月28日日曜日

【悪魔が来りて笛を吹く】悪くない。むしろ良い。

「悪魔が来りて笛を吹く」を読んだ。犬神家の一族で初めて金田一シリーズを読んで、いまいちハマれなかったのだが、この本は同時に買ってしまっていたので仕方なく読んだ。

最初に結論だけ言ってしまえば、こっちの方が面白い。この作品は、金田一シリーズの中でも異色らしいから、異色の方が気に入るとなると、やはり金田一シリーズは俺には馴染まないのかも知れない。



旧華族の屋敷を舞台にして、犬神家の時と同様に、忌まわしい血の・・・直截に言えば近親相姦の秘密など、と戦後の混乱がカオスな事件を呼ぶわけだ。

相変わらず、金田一はそこはかとなくムカつく。好きになれない。
ちょっと失礼気味だが今風に表現すれば天然というヤツで周囲に好意を抱かせる、という設定なのだろうが、そもそも俺が普段から「天然」などと称されるような人物を嫌うせいだろうか。読みながら端々で、「お前ふざけんなよ」と突っ込みたくなる感覚がある。絶対に友達になれない。


だが、こっちの作品では、犬神家とは決定的に違う要素が一つあった。

物語には欠かせない、事件の中心近くで苦悩している、金田一が救うべきヒロインだ。

犬神家のヒロイン、珠代は、「絶世の美女」と章のタイトルで言い切られるほどの存在でありながら、悲劇の匂いを感じて沈みながらも流され、最後にはすべての種明かしの後に王子様(ちょっと汚れてるけど)が現れて救われるという役どころだった。それが、俺にはさしたる感動を呼ばなかった。

「悪魔が来りて笛を吹く」の方のヒロイン・美禰子は、ちょっとそれとは違う。

作品中の描写を借りよう。

「二十前後の若い婦人で、黒いスカートにデシンのブラウス、ピンクのカーディガンに髪をショート・カットにしていて、ちかごろのその年頃の婦人としては、かなり地味な方である。容貌はお世辞にも美人とはいいにくい。」


絶世の美人と登場前から断言された珠代に比べ、随分な扱いだ。横溝正史もなかなか言う。おでこだ、眼が大き過ぎだ、頬と顎がこけてる、あげくは「気味悪いウィッチのよう」などと否定的な描写が続く。嫁入り前の娘に対して言い過ぎじゃないか、横溝よ?

しかし、父が失踪し、その父に犯人の嫌疑もかかる中で、美禰子は繊細な精神を以って真実を明らかにするための最善を尽くす。だからこそ、金田一の元へ依頼にも行った。

全編を通して、人でなしか腰抜けか犯罪者ばかりの屋敷の中で、ただ一人、恐怖に震えながらも眼を開いて考えている姿は胸を打つものがある。

話が進むにつれて、彼女の立ち居振る舞いが「いかめしい」のは、環境、父が失踪(自殺)をする前から母は精神を病んでおり、浅ましい血族に囲まれて生活する中でそうせざるを得なかったという背景も明かされる。

二十そこそこの娘には辛過ぎる境遇である。

そうなれば、それを助ける金田一も、相変わらず好きにはなれないが応援する気になって来るというものだ。

その健気さは、折りにつけヒロインの容貌や雰囲気を非難していた金田一(横溝)にも、

「まえにも言ったように美禰子は美しくない。(中略)しかし、いまこうしてしょんぼりと、肩を落としているところを見ると、やはり娘らしく可憐なところもうかがわれる」


と、苦しいながらいくばくかの上方修正というかフォローを与えさせるほどだ。

そうだろう、そうだろう、と同意したね。俺はこれでも想像力はだいぶ豊かだと自認している。挿絵などなくても登場人物の容貌くらいは描写の範囲を守って思い描きながら話を読む。そして俺の脳内に構築された美禰子なる人物は、確かに皆が認める美人じゃなくとも、信じて守るに値する魅力を備えていたからだ。

つまるところ、読者が・・・いや、正確には俺が、何がしか感動を覚えるセッティングというのが見えてきた気がした。

つまり、弱い者が、弱いながらその持てる力で、震える足を叱咤しながら立とうという、そういう姿に心打たれるのであって、それが、少女とそれを救うヒーローというステレオタイプに嵌っていれば尚単純に良い。って、あれ、随分普遍的な気もするなこりゃ。






ちなみに。

地味なカーディガン姿にショートカットと言う姿、程度はともかく感情の抑制とその限界の訪れという状況が、先に触れているライトノベルのヒロインに似ているという件は、少し気になるがあまり重要じゃない。

なぜなら、実際に読んだ順番はこちらの方が先だからだ。

いや、もしかしたら、重要なのかもな。

【犬神家の一族】どうもしっくり来ない

もはや説明不要のような気もする。

「犬神家の一族」。金田一耕助シリーズとして有名で、やはりその中でも一番有名なのではないだろうか。

ゴム仮面の佐清、冬の湖面に足だけ突き出した奇怪な死体。

とは言え、実は俺がこの作品について知っているのは、実は以上の情報がすべてであった。実際に読んだことはないわけだ。なので読んだ。

今更、こんな有名過ぎる作品を初めて手に取るあたり、俺は今まで本当に本というものを読まなかったんだなあ、と呆れ返るとともに、思いがけないところに安価な楽しみを見出して喜んでいる次第である。




あらすじはまあいいや。知ってる人も多いだろうし、知らない人は読めばいい。

簡単に感想をまとめると、

ヒロインの珠代は、美しく、苦悩をしていたわけだが、いまいち感情移入はできんかった。「絶世の美人」として描写されているが、どうも最後まで唯々諾々と流されてる感が拭えなかった。もちろん、多少の意思表示はあるのだが、陶物っぽさを払拭するには至らず。

その他の主要人物、ゴム仮面の佐清、デブの佐武、オタクっぽい佐智は、まあ容疑者であり被害者であり、ということで何を考えているのはよくわからず、しかしロクなことは考えていなそうということだけは伝わってくるので、やはり感情移入しずらかった。

最後の方でどんでん返しはあるわけだが・・・ちょっと突然な印象を受ける。まあ、そこが醍醐味なんだろうけど。


と、珍しくあまり好意的でない感想を言っているが、おそらくそれは、あるひとつの不満に収束されるのだ。


つまり、金田一耕助に共感出来ない。


知的好奇心の塊みたいな人物として描かれているのだが、何がどうってわけじゃないんだが、読めば読むほど、人死に対してあまりに軽薄な態度に感じられて、むしろ「いい加減にしろよお前」という感情さえ抱いてしまった。

何がそう感じさせるのか、はっきりとはわからない。ところどころ、憂いのある言葉もあったように思うし、犯罪を防ごうとしてもいると思った。だが、何か、文体のせいなのか台詞のせいなのかわからないが、俺の金田一に対する印象は、名探偵である以前に無責任な職業探偵、となってしまったのだ。

主人公に肩入れ出来なくては、さすがに他の何を以ってしても物語が色褪せて感じられてしまう。

もちろん、それなりには面白く、読んでれば先も気になって、すぐに読み終わったのだが・・・でも、ねえ。

金田一耕助は俺のヒーローには当てはまらなかったようだ。

【ジーキル博士とハイド氏】100年以上前の話だったとは

つまり有名は「ジキルとハイド」です。

多少古い話だろうとは思っていたけど、よもや100年以上前(1886年)の作品だとは知らなかった。読み終えて、想像していた寓話的なものではなく、むしろSFミステリみたいなものだったと知り、尚のこと驚いている。

19世紀末、飛行機はまだ飛ばなかったが電灯もあればエンジンもあり、X線も発見されていた頃なので、薬品で人格を変異させるというアイデアくらいは出ても良いのかもしれない。それにしても。



読んだのは岩波文庫版。本編の最終章まで秘密にされている「ハイドは実はジーキルが変身した姿であった」という点が、表紙の1行目で勝手にネタばらしされているのが非常に不親切というか、少しは気を遣えよバカ、と言ったところである。

まあ、ジキルとハイドが同一人物というのは、さすがにいつどこでだかわからないが知っていたことだから読み進める上で興を削がれることにはならないが。

※以降、豪快にネタバレ


「ひとつ質問をするのは、石をひとつ転がすのと同じです。質問するほうは、丘の上に呑気にすわっていますが、石は転がり落ちながら、途中で他の石をいくつも動かしてしまいます。やがて、一人の実直な老人が自分の菜園で、その石のひとつに頭を打たれて死ぬことになるんです。」


ジーキル博士の友人であり、ハイド氏の秘密を暴くことになる若い弁護士に、友人が言った言葉だ。だから、余計な詮索をしていらないことに首を突っ込むのは慎め、と。

冒頭に近いところの言葉だが、なるほどなあ、と思った。そして、弁護士アスタンは、その忠告を聞き入れることが出来なかったために、確かに最後は老人が死ぬことになった。

だが、忠告を聞けていたら、老人は死なずに済んだのか?と問われれば、そうでもないだろう。いずれ破滅するものは破滅する。どの石がどう転がっても、誰も踏み入れない落石注意の崖下のような危険な場所に菜園なんか作ってケッタイなものを栽培してれば、そのうち石に打たれるのだろう。

というのが読後感である。



ところで、「ジキルとハイド」という慣用句?は、「同一人物の中の善人と悪人」と捉えられることが多いかと思うし、俺もそう思っていた。

だが、本編を読んでみると、これはどうやら間違っていたようだ。

つまり、ジーキル博士は、悪人なのだ。いかにも、慈悲の心を一片も持たず、己の欲望と感情と保身にのみ忠実な極悪人のハイド氏に比べれば、いささか一般人的な配慮を持っている。
だが、それでも一般的なレベルで見れば、十分に自己中心的で自己の保身に執着し、放蕩でありながら体面に拘る、けっして善人とは言えない人物として描かれている。

ジーキル博士が作った薬品は、本人の説明によれば、人を悪人に変身させるものではない。

個人の内部で対立している複数の人格の、いずれかひとつのみが肉体に対して支配的になる状態を作り出す、というものらしい。

だから、この薬品の効果により、神の如き聖人が顕れることもあるのだろうが、ジーキル博士においては顕れたのは悪鬼の如きハイドだったと。

ジーキル博士は、学問と慈善に尽くす紳士として振舞う一方で、隠れて破廉恥な享楽を求めずにいられないという困った人物であった。

だからハイドという人格(人格とともに、容貌も変わる)を手に入れたことに非常に喜んだ。だが、繰り返し薬を使うことで、徐々に、ハイドに肉体を乗っ取られて行く。

最後、ジーキル博士は顛末のすべてを手紙にしたためる。

もはや、薬がなくても意思と無関係にハイド氏に変身してしまう上に、ジーキル博士に戻るための薬は底をつき、再調合も出来なくなっていた。
ハイド氏はその後も元ジーキル博士の肉体を使って気ままに悪逆を尽くすかも知れないが、ジーキルという意識は二度と現世の肉体に宿らない。だとすれば、ジーキルは死ぬのだ、と悟って、遺書を書いたのだった。



肉体と意識と生と死の関係、テクノロジー(薬品)への依存と制御の喪失、そういったテーマに対して100年前とは思えない慧眼を感じた。

が、よく考えて見れば、その頃の、いやもっとずっと昔から人間は今と変わらず高度な思索活動を続けてきたのであって、今現在の世の中がすこぶる便利なテクノロジーで満たされているのは、現代人が1000年前の人間より優れているからではなく、人間という種が数千年にわたり知識を蓄積することが出来た結果なわけだから、わずか100年くらい前なら、このような話が書かれているのも道理とも思える。
いや、やはり先見の明はあると思うけど。


にしても、もっとも恐ろしいと感じたのは、やはりジーキル博士のそもそもの破綻した人格だろう。紳士の仮面と隠れた、しかし我慢の出来ない変態気質。

100年前のイギリスで描かれたこの人間の苦悩は、つまり、俺がつい1ヶ月前に近所の路上でたまたま見かけた、女装した中年男性(オカマとかニューハーフとかじゃない、女装露出趣味)を思い出すまでもなく、現代も同様かそれ以上に、人間を悩ませているのだと。


インターネットの普及は、人間が社会生活を送る上で秘めている性質の発露に貢献しているのは間違いない。正直に言って気持ちの悪い女装男のサイトを探すまでもなく、罵詈雑言に妄想妄言が溢れている。

それが悪いことかどうか、判断は難しい。隠されていることと存在しないことは違うからだ。しかし、とにかく、人間は二面性がある、というよりは、人間は隠している、近代に至りより多くを隠している、ということだけは確かなのだろうし、最近になって、その蓋があらぬ方向から少し開いて来た、ということも言えるのだろう。

ジーキル博士の薬には及ばないものの、それに近いものは、ブログやSNSのアカウントという形で手に入れられるのだ。

このブログも然り。

【涼宮ハルヒの消失】これは掟破りだろう

前に書いた通り、うっかり読んだ涼宮ハルヒの憂鬱が面白かったので、そのまま続巻を読んだ。

文庫として書き下ろされる長編の巻と、雑誌連載などで発表されていた短編をまとめた巻がだいたい交互になっているようだ。

短編は、それはそれで面白いが、それだけで読むと学園ドタバタストーリーに近い。最初の1冊が面白かったので読んだが、そうでなかったら俺はさほど興味を持たなかったかも知れない。

ただ、長編と繋げて読めば物語全体の伏線になってたりもして、最初の突拍子もない話に対して説明されなかった部分の謎解きみたいにもなっているから、そのまま読み進めた。

で、4冊目にあたるのが「涼宮ハルヒの消失」。



端的に言うと、涼宮ハルヒが消失する話というわけでなく、主人公である語り部の少年キョン、彼以外のすべてが消失する話だった。

消失すると言うよりは、周囲の世界がある朝すべて変わってしまうのだ。同じ家、同じ学校、同じ人々がいるが、少しだけ違う。自分が常々そうであれとぼやいていた通りの平穏な日々に、世界が変わってしまっていた。

そこから、主人公、常識人であり常識をこよなく愛するかのように振舞っていた主人公が、望みどおりの筈の、だけど改竄された世界で、元の鬱陶しい世界に価値を認め、帰って来るために奮闘するという話。

「大切なものは失ってみて初めてわかる」と言うような、言い古された格言を地で行くベタな展開だが、この作者の持ち味はそういうベタなところだと思う。ある意味純粋だ。

さて、シリーズの各巻をそれぞれ取り上げてないのに敢えてこの「消失」を再びここで取り上げたかというと、つまり、既刊をすべて呼んだ結果、この巻が非常に強く印象に残ったからだ。

あらすじを延々と書いても仕方ないので細かいことは書かないが、つまるところ・・・やはり、ベッタベタにベタな展開で、1冊目に同属と超絶バトルを演じた「無感情な宇宙人製アンドロイド」であるところの少女・長門をメインに据えた、ひどく切ない話になっているのだ。

人工的に作られた、感情の無い少女が、周囲との触れ合いの中で少しずつ、無かった筈の感情を獲得して行く。だが感情の獲得は同時に苦悩をもたらし、笑顔を知ると同時に悲しみを知ることになる、というお膳立ては、鮮やかなまでに、10年前に一世を風靡したロボットアニメ・・・つうかエヴァンゲリオン・・・つうか綾波レイを連想させる。

いや・・・ここで、こういう名前を出してしまっては俺もいよいよオタクの本流に腰まで浸かることになるのか、と危惧しながらも、日経新聞によれば日本人男性のうち100万人は綾波が好きだということだから、このくらいの注意の払い方は極めて普通人であると言っても差し支えないのだとも思うのでよしとしよう。

さて、そういうわけで、この「涼宮ハルヒの消失」の中核の成すエピソードも二番煎じだと言ってしまえばそうなのだが、それはアイデアレベルの話であって、料理の仕方はやはり違う。それが、非常にうまく行っていて、未熟な悲恋をスパイスにした少年の成長物語(こう表現するとこれまたベタだな)として爽やかな読後感をもたらしている。

いやあ、短く言っちゃうと本当アレだけど、しかし、やっぱシリーズとしてよく出来てる話だと思うよコレ。数冊まとめて買うときには余計に表紙が恥ずかしかったけど。



ところで、ここで開き直って、せっかくだから長門・綾波という「神秘的な無表情系」なキャラクターが、なぜ日経新聞の記者(しかも社説で)をトチ狂わせたりするほどに、コアな人気を獲得するのか・・・それを考察してみようと思ったが、そんなことを16000字くらい書いた日には俺もあっち側にお呼ばれしてしまいそうなので、止めておこう。

ただ、思うに、それはきっと、凄く青臭い言い方をすれば、と言うか青臭いことなのでそのようにしか言えないのだが、初恋への憧憬ではないか、と個人的には考えている。

恋に恋してなんかいない少女が、下心なんかない少年と出会って、自分でそれともわからないうちに、まだ恋とすら呼べない特別な感情を抱いて行く。それは何とも美しいではないか。タイピングしていて赤面したくなるくらいに。

現実では小学生だってエロ本を立ち読みし、大人の目が無ければ(実行は普通しなくても)ヤるのヤラないのと男女を問わずに下卑た話をする。いや、今時云々じゃない。きっと昔からだ。俺だって小学生の頃に友達とエロ本探しと称して藪を探検したりもした。

それはそれで、さほど不健全なものでも無いと思うが、しかし、高校生にもなれば男子の脳内はまともな片思いのひとつすらしていなくても「誰でもいいからヤラせてくれ」という欲求で満たされ、大学生になれば身体はもっと安売りされる。

いや、売春とかの話じゃないよ。それよりはマシなレベルの話をしているつもりだ。精神的な活動について言ってる。


ともあれ、それに対して、人工的である、という設定が保証する「完全に無垢」な状態から、主人公に心を開いて行く長門や綾波というキャラクター像は、まさに神々しいレベルの穢れ無さであり、そのエッセンスは、少しばかりの純粋さ或いは潔癖さを備えた男なら「思い出の1ページにそんな相手が欲しかった」と共感可能な要素であり、それはつまり女性における白馬の王子にも似た純粋な憧れのステレオタイプとなり得るものではないかと思うのだ。


あー。

結局そこそこ書いてしまった。
だが、これは俺が二次元キャラクターに偏愛を捧げているという意味ではない。文化的な考察だと捉えて欲しい。いやそう捉えてくれ。頼む。



それでも、俺は、幼い頃に漫然と見ていたアニメの中で、子供心に「かわいいな」と思ったキャラクターが、

・ハクション大魔王のアクビちゃん
・スプーンおばさんのルウリィ

であり、その他いろんな記憶をまさぐってみても、わずかに吊った目で無垢な雰囲気というヴィジュアルに共通項を見てしまうのは恐ろしい事実だ。

ちなみに、こんな世迷言を読んだらブチ切れそうな嫁も若干の吊り目であるから、そうか、俺はやはり正しくポリシーを貫いて生きてきたんだと、変なところで納得もした。

【宇宙戦争】なんだかんだ言ってもトムは格好いい

スターウォーズに続いて宇宙戦争。同じようなことを言ってる気がするし実際そうなんだが、まったく違う内容だ。



これは、面白かった。PCで作業をしながら片手間に見てたのだが、途中からすっかりテレビの前に向き直って見てしまった。

つまるところ、地球をこっそりと監視していた宇宙人が遂に襲来し、その圧倒的なテクノロジーで人間を殺戮しまくる、さあどうする?という古典的な話だ。

古典的なのも当然、”SFの父”と呼ばれるH・G・ウェルズの古典的名作が原作なのでつまり古典なのだ。

多少ワイルドだが、離婚されてたまに元妻と子ども達に会っても不器用な接し方しか出来ない港湾労働者を演じるのがトム・クルーズ。今更聞いても何の新鮮味もない名前だが、やはり長く活躍するだけのことはある。普通に格好いいと思う。

反抗期の息子と情緒不安定な幼い娘を預かっている時に街が宇宙人に侵攻され、必死の逃避行をするというのが主なストーリー。

宇宙人は各地に現れて地球を侵攻しているので、各国軍が戦闘しているのだが、それはここではメインではない。

子ども達を守る、というそれだけを至上にして唯一の目的としたトムの逃避行がメインだ。途中、宇宙人に抵抗を試みる男に腰抜け呼ばわりされても、娘を(息子は若気の至りで途中で袂を分かつ)守ることだけに全てを捧げる姿は、国の為、地球の為という大儀とは違う何か大事なものを感じさせて感動を誘う。何かを守るということは、カッコよく玉砕すればいいと言うものではない、と。


最後、宇宙人が、蛸足のメカから地上の偵察に降りた際に水や食料を摂って、地球の細菌に感染したことで弱体化して地球の兵器に破れる、と言うのはやや合点が行かなかった。それだけの文明的な連中が、野蛮であることぐらいは受け入れるが、他所の星でおもむろに生水飲むか?現代地球人だって外国行ったら生水は自重するぜ。
まあ、そんな突っ込みどころはそれほど重要じゃない。逆転の目が出るギミックなんて適当に理由付けされてればいい。この作品の主眼はそこじゃないのだから。

トムを罵った自称レジスタンス(予定)の男は、「最後まで目を開いて何をすべきか考えているヤツが生き残る」とかいうことを言っていた。それは確かだと思った。もっともこの男は目を開いてられなくなって死ぬ羽目になるんだが。

一方トムは、積極的に撃って出る意思がまったくないことで、その男からも、たぶん息子からも腰抜けのように思われていたが、やはりそうではなく、娘を守るためにやらねばならないことを全力で考えていたということなのだ。結果、娘がトライポッドと呼称されるようになった巨大蛸足メカに捉われた時には自ら突撃し、偶然の助けも得ながら手榴弾で撃破を果たす。

突撃は、やるべき時にやることであって、そうでない時にやることではないと。これは単純だけど大事なことであり、また人々が忘れ易く、日常生活にも活かせる教訓であるなあ。

「やるしかないだろ!」仕事なんかでもそういう台詞を誰かが吐くシーンは、年に数回くらいはあると思う。ない?俺はあるけど。

でも、そこで考えるべきなのだ。それは本当に、勇気ある決断なのか、それともただの破れかぶれなのか。


小学校低学年?くらいの、情緒不安定な娘は、可愛らしいヒロインだったな。ませていて、かなり生意気な子どもなんだが、その実、必死に生きているような雰囲気が、徐々に健気さを感じさせる。それでこそトムが守ろうとする姿もまた活きる。


あと、ネタ的に面白かったのは劇中での噂話。停電により情報が遮断され、混乱する中で、舞台であるアメリカの人々は囁きあう。

「アメリカが最悪で、アジアもやられているがヨーロッパは無事らしい」
「ヨーロッパは跡形もないらしい」
「大阪(日本)では、トライポッドを何体か撃破したらしい」


噂ではあるが、その時点において、地球上で唯一、宇宙人相手に僅かながらの戦果を上げたのが日本であるという話。

俺が見た時点で察したのは・・・
ははーん。結局のところ、インディペンデンス・デイでもそうであるように、宇宙人のシールドを突破して通常兵器で倒すには、特攻しか無い。だから日本人は得意の奥義・バンザイアタックで倒すことが出来たということか。


と思ったのだが、さっき調べたら監督のスピルバーグ曰く、『大阪が倒せた理由?そんなの、日本人はアニメやオモチャでロボットに詳しいからに決まってるじゃないか!』だそうだ(Wikipedia)。

なるほど。それもまた一理あるな。

俺は簡単に人間を国でラベリングしたりするのは好まないが、日本には、ロボットについて他の国々の研究機関とは違う熱い眼差しを注ぎ続けている人々が数多くいることは確かに思える。そうでなければASIMOみたいな役立たずを巨費を投じて作ったり、本物の真面目に最先端的研究のためのロボットのデザインをアニメのメカデザイナに依頼したりはしないだろう。

http://www.kawada.co.jp/mechs/mk-II/index.html
↑HRP-3 Promet Mk-II ガンダムやパトレイバーの出渕裕がデザイン。無駄にカッコいい。


トムが出てくる映画に多いと俺が思い込んでいる、最後に大爆発でスカッと爽快系では無かったのだが、これはこれで、むしろ面白かった。

2008年9月27日土曜日

スターウォーズIII シスの復讐

見た。

相変わらず、あまりにメジャーな作品をあまりに遅まきに見るのがマイスタイル。違う。スタイルじゃない。見ようと思っているうちに数年が経過していたというだけだ。



いわゆるエピソード4~6は小学生時代、それもだいぶ小さい頃だったような。ジェダイの復讐の看板は記憶にあるけど、気楽に映画を見に行く歳じゃなかったから見ていない。
たぶん、俺とスターウォーズ本編との出会いは、そのジェダイの復讐が公開されるにあたって金曜ロードショーとか日曜洋画劇場とかそんなんで1、2が放映されたことによるのだろう。

同級生でも、多少知恵があって、特に兄がいるような連中は結構熱心に語っていたように思う。俺も、映画をテレビで見て、まあ普通に絵的に面白いなと思ったが、それほどでも無かった。なにせ外人はゴツいからな。レイア姫が俺の脳内の姫像と違っていたのがいけないのかも知れない。そんなこたないか。

そういうわけで、スターウォーズシリーズは面白いものという認識がありつつ、マニアのようにとりわけ入れ込むような興味は無かった。


さて、かなりの時を経てエピソード1が公開された時、俺は学生であった気がする。この時は、ストーリー云々よりも、あのSFが現代技術でやるとどれほど凄くなるのか、という点において強い興味があった。

それで、後に妻となる彼女と一緒に、珍しく劇場に見に行ったのだが・・・彼女の感想は、「話が少しもわからない」その他3つほどの、根本的な不満によって構成されていた。元々、SF、アニメ、ホラー、アクション、そういうジャンルの話には興味のない人間だったから仕方ない。曰く、「ぜんぶ嘘の話じゃん」。それ言っちゃ終わりだろうよ。

俺の感想はと言うと、これもやはり、さほどは面白くなかったのだ。普通にはエキサイティングだった気がするが・・・期待していたSFXが。

思うに、子どもの頃に見たスターウォーズのSFXは、もっとチャチだった筈なのだが、その後の記憶の中で、都合よくグレードアップされていたのだろう。俺はもともと、飛び去るウルトラマンのがツヤツヤで吊り下げている糸が見えていたからと言って、そんなことに突っ込みを入れて面白がる気質は薄かった。黒子は見えないもの、だったら見ない、という見方が出来る程度の度量は持ち合わせていた。

だから、エピソード1とエピソード4に、あからさまなSFXのクオリティの差を感じることが出来なかった。いや、よく見れば俺だって気づくが。

で、その後のスターウォーズシリーズには興味が薄れていたのだが、それでも、途中だけ抜けているのは非常に気持ち悪い。それで、その穴を埋める部分はDVDで鑑賞することにしていた。



で、ようやく、今回エピソード3を見たわけだが・・・まあ、ほぼ期待通り。豪華なSFXは豪華だけど、豪華なSFXだなあ、という以上の感慨はあまり持てず。

SFXで非現実的な映像が実現されている、という凄さと、その映像の情景が衝撃的に美しかったり格好良かったりする、というのは別だからな。

そういう意味じゃ、いかにヨーダのライトセーバー捌きが神業でも、「すごいなあ、でもヨーダはこのくらいするんだろうな」という感想しか持てないわけで、マトリックスのネオのブリッジ弾丸避けを初めて見た時のような「!」という感覚は持てない。


とは言えやはりSFXは全編通して圧巻で、あの馬面のメカニカル阿修羅マンみたいな敵とオビワンの決闘とか、ダースベイダーがちょん切れて炎に包まれながら呪詛の言葉を叫び続けるシーンなんか随分な迫力だったんだが・・・。

結論から言うと、やっぱりちょっとイマイチかなあ。

そもそも、話がわからん。評議会?元老院?ドゥークー卿?クローン?ドロイド?ダース・なんとか?そんな感じの、会話の中に頻繁に出てくる用語が、いちいち話の理解を妨げる。見ながら、PCを開いてWikipediaで調べ、ようやくふむふむ、なるほど、なんて感じで見ていた。

だから話は頭に入らんし没頭も出来ず、ただただ光線が踊る映像を楽しむといった感じになってしまい、しかしこういう凄絶な戦闘も、結局のところ、「彼らは何者で、何の為に、何故戦うのか」が見えない状態ではイマイチ感情移入できないので面白さ半減。

オリンピックだって、興味の無い国の興味のない選手の競技より、自国の選手が出ている、或いは、注目している選手が出ている方が面白いのと同じだ。

水泳の北島の優勝には日本中が沸いた(例外はここでは気にしない)だろうが、映像だけならそこらの市民大会でも、50mプールで8人の人間が平泳ぎをしている姿くらいは見ることが出来る。そんなものは見ても「ふーん」程度だろうが、それが斯くも人々に感動を呼び、飽き飽きするほどテレビで繰り返し流されたのは、あのレースに至るまでの背景がそれ以前に散々説明されていたから、北島がどういう背景を背負ってレースに臨むかという解説があったからだ。

そういう意味で、スターウォーズのSFXは凄い、だが、何の戦争だか誰なんだかわからん登場人物が戦っていても、雑技団のようにしか見えない、と言っては極端だが、でもそういう風に感じてしまうのだった。


ま、それでも普通に考えれば十分に面白かったのかな。

スターウォーズ、というブランドに期待値が大き過ぎて、「つまらない」という感想を持ってしまったのかも知れない。

ちなみに、終わる10分前くらいになって、「やっぱり俺はエピソード2は見ていなかったんだ」と気づいた。でも、もうそれはいいや。

【涼宮ハルヒの憂鬱】表紙には抵抗あったぜ

暇つぶしとして、DVDや映画というものは良いのだが、やはり本というのは素晴らしい。
通勤電車の中で、寝る前の布団の中でと、場所を選ばずにすぐ読める。

読もうと思ってから実際に読めるまでの立ち上がりの早さ、止めようと思った瞬間には0.1秒で終了できる、この意思に対する追随性は未だデジタル機器の及ぶところではない。

てなわけで、結局は映画よりも本の方が気に入ってしまって、随分と久しぶりにせっせと本を買っては読んでいる。

俺は本が好きそうだとよく言われるし、嫌いなつもりもないが、でも実はあんまり読んでない。仕事のための技術関係の本ならちょこちょこ読んでいたが、単純に楽しみのための小説なんかは・・・本当にここ15年で5冊も買ったかどうか。

ちなみに前にまとめて小説を買った記憶は、ガンダムI、II、IIIとゼータガンダム全6冊だったか?を読破した中学生時代にまで遡らなければならない。ひどい。野蛮人か。

それが、ここのところ、まあ勢いに乗っていろいろ読んでいるのはこれまでにも書いている通りなんだが。

今度はこれ。



涼宮ハルヒの憂鬱。

確か数年前に大ヒットしてたんだよな。当時、電車で隣のおっさんが呼んでいる新聞の書評欄にも出てたり、まあ結構あちこちでそのタイトルと「ただの人間には・・・」という有名なくだりが目に付いていたから、その存在は知っていた。

でも、そういう書評や例の台詞などからは、俺にはイマイチ面白さが読み取れなかったので、さほどの興味はなかった。

で、ある夕方、ストックしていた本も読み終えてしまったし、テレビはつまらんし・・・と、思い立ってGYAOを見たら、そのアニメ版の第一話がやっていたのだ。

で、暇つぶしに見てみた。

ら、なんと言うか・・・高校を舞台になんかやけに自己中な少女がぎゃーぎゃー言って、老成した少年が溜息を吐いているばかりといった印象で、やっぱり大して面白くなかった。よくある学園ラブストーリーにナンセンスギャグなのかな?と。


しかし、どうも何かこう、引っかかるというか、随分ヒットしたからには、これだけじゃないんだろ?という気持ちもあり、続きが気になるも二話以降は無料では見れなかったので―

買ってきたのが原作の1巻。まあ、昼飯程度の値段だから、かつての話題作を読んで、「やっぱ大したことねえな」で終わっても数時間潰せればいいのだ。


と、そんなノリで読み始めたのだが・・・これがなかなか・・・読み始めて間もなく、確かにアニメは原作に忠実だったのだろうが、主人公のモノローグをそのまますべて台詞にするわけにもいかないから適宜端折られてもいたわけで、そういったちょっとの差が、結構、俺には好意的に受け取れるギャップとなっていた。

まあ、これこそまさにライトノベルであるから、読みやすさは折り紙付きということでつらつらと読み進むにつれ、気持ちいいほどに期待通りに期待を裏切って結果期待通りに盛り上げてくれる展開。

たぶん多数派の感じ方を俺もしたのだと思うが、やはり、寡黙なメガネ少女・長門が主人公の「キョン」に正体を無理やり明かし、その胡散臭いにもほどがある稀有にして壮大な話を証明することになるくだり、とりわけそのいきなりで壮絶なバトルに、単純に心躍らしてしまったわけだ。

これをきっと多数派と感じたのは、読了後にネットでちらりと確認し、その「長門」が、かの「綾並」と双璧を成していると知ったからだ。そういう捉え方に、俺はすっかり常識人の振りをしても、やはり自分の中に頑として存在するオタク的センスを認めざるを得ないのはちょっと複雑な気持ち。



さて、とは言え、この話がとても面白かったのは、念のため声を大にして言っておくが、主要キャラであるところの3人の美少女(というかどんなジャンルであれ創作物に不細工少女など登場しないのが通例だ)のイラストに心惹かれたというような純粋に二次元LOVERな興味の為ではない、と主張したい。イラストは正直に言ってかわいいが、俺はこれでも、過去に人間のプラモデルはグフに付いて来たランバ・ラルくらいしか作ったことはない。

語り部であるところの主人公の少年は、もっとも古い記憶の時点でサンタクロースを信じておらず、にも関わらず「宇宙人や未来人や幽霊や妖怪や超能力や悪の組織やそれらと戦うアニメ的特撮的マンガ的ヒーローたち」との遭遇を待ちわびていた。


その感覚に、とにかく激しく同意できたのだった。


きっと、それほど珍しいことではないのだと思う。

だが、ともあれ、俺も確かに、4歳まで記憶を遡ってもサンタクロースの実在は一度も信じた覚えがないし、小学校ではクラス皆が心霊ネタで盛り上がっているときに、理屈を捏ねて水を差して白眼視され、くだらない錯覚と思い込みで夢見る連中をバカにしながらも、図書室で一番好きだった本は”世界の怪奇現象”みたいな本で、学生になってからもバイクであちこち出かけては「河童」だの「鬼」だの「環状列石」だの云うケッタイなキーワードを辿っていた過去がある。

人並み以上に怪奇現象を否定し、一方で少しばかり人並み以上にそれを追い求めていた。

そしてそういう感覚は、三十路を超えた今だって、完全に消え失せたか?と言えばそんなことはない。もちろん、分別のある歳だから、そんな願いが字句通りで叶うなんて思ってないが、「そんなことは無い」と知ることと「あったらいいな」と思うことは別だ。

日常風景で始まった物語があれよあれよという間に途方もないスケールの非日常に変わって行くストーリー、また主人公の軽妙な語り口もあって作品自体非常に面白いと思ったが、そこにさらにある種の郷愁を覚えるものだからか、まあ、端的に言えば嵌った。

シリーズで出ているが、どれもこれも表紙を飾るのはアニメ的な美少女画。中身は別にエロでも何でもないというか、むしろ少年ジャンプ程度のサービスシーンすらなく、この上なく健全なのだが、慣れがないと手に取るのに抵抗は少しあるな。あるんだけど、続きも買って来て読んでしまった。

2008年9月26日金曜日

【魍魎の匣】鳥口ちょっと軽薄

姑獲鳥の夏を読んですっかり気に入り、そのままシリーズの続きである魍魎の匣も読んだ。

これも、結論から言うと、かなり面白かった。払った金以上には十分に楽しめた。いまどき、舞浜あたりの張り切った遊園地に行けば1日で万単位の金が吹っ飛ぶのだ。ドライブしたってガソリンは高く、高速道路を1時間も走れば数千円が二酸化炭素やら何やら見えないものに化けてしまう。こんな時勢に、たかだか数百円でこんなに楽しんでしまって良いのだろうか、と心配になってしまう程度には楽しめた。俺は文庫1冊読むのに5時間前後はかかるからね。




さて、今回は前作より話も長くなっていたが、武蔵小金井(住んでいた)、相模湖(よく釣りに行った)などの、馴染みのある土地が頻出したのはまた良かった。舞台設定は戦後だから、俺の知っている景色がそのまま出て来たりはしないが、なんとなくの親近感は湧く。

関口は相変わらずいい感じに混乱しており、ゲストキャラが前作より若く女子高生(だけじゃないが)というのも興味深かった。もちろん、今時の馬鹿馬鹿しいギャルが出てくるわけじゃないし、ミステリのゲストなんてのは事件のおよそ当事者達なわけで当然後ろ暗い何かがあったりするわけだが、これが戦後復興期の女子高生のあった姿をどの程度現しているのせよしていないにせよ、主要キャラが三十路揃いのこのシリーズに一抹の瑞々しさを与えていたであろうことは間違いない。あー、ちなみに、美少女との描写はあったけど絵とかは無いからね、別に萌えるとかそういう意味じゃないよ。

ただ、話がより複雑になっていて、京極堂の憑き物落としも前回ほどの切れ味はなく(それは作中の本人達の事情によりだ)思え、すっぱりさっぱり爽快なものを嗜好する俺としては、姑獲鳥の夏の方がより面白かったとは感じた。

が、それを差し引いても、十分に面白かった。

「この世には不思議なことなど何もないのだよ」

俺も、ここぞという絶妙なシチュエーションで言ってみたいものだ。そんな機会が来るとも思えないが。

【姑獲鳥の夏】 食わず嫌いはいけない

京極堂、という語には覚えがあった。京極夏彦という作家の名前も知っていた。しかし、その著作を読んだことは一度も無かった。もちろん、名前は覚えているが読んだこと無い作家なんて、さして読書家でない俺においては毎日の抜け毛の数ほどもあるわけだが、それにしても京極夏彦には、むしろ良くないイメージを持っていた。

名前が売れてるがつまらないに決まっている。そう思っていた。人だか建物だかわからんが登場するものを自身の名前にするトンチキ振りに抵抗したのか、そうでも無いという気もする。今となってはさっぱり毛嫌いの理由がわからない。ただ機会がなかったのかも知れない。何せ、小説の類を頻繁に買ったのは中学生の頃のZガンダムくらいで、つまりその後10数年、活字文化とはアメリカとイスラームくらいに断絶していたからな。・・・断絶具合がよくわからない喩えだなこりゃ。

ともあれ、これまたどうしたきっかけだったか、電車で隣のおっさんが読んでいたか、仕事の合間にAmazonでレビューでも見たけたか、なんとなく書店に見つけて手に取り、「姑獲鳥の夏」を読んだ。



端的に感想を言うと、いやー、面白いなコレ。

最初、てっきりいわゆるオカルトなSFミステリ?みたいなものだと思っていた。最後には京極堂が文字通りの呪い(京極堂的な意味でなく)で、悪霊退散をやるのかと思っていた。それはそれで嫌いな話じゃないが、ただ、この京極堂の憑き物落としは、それよりも俺の趣味に合致していた。

疑似科学の排除。実に俺はこれに多大な関心を寄せており、一時期は熱心にいろいろ考えたりもしていた・・・考えただけではないのだが、まあ、考える以外に何をしたのかはここではどうでもいいだろう。

で、そんな自分の考え、見方にピタリと!では無いにしても、大筋において「だよな!」と合意しながら読み進められる、そんなヒーロー(と呼ぶべきかは疑問でもあるが)だったのだ、京極堂という人物は。

周囲の登場人物も魅力的だったが、とりわけ関口のキャラクターは出色だ。語り部であり、ある意味で最重要人物でありながら、作中によく出る単語で言えば「胡乱」きわまりない。鈍いような鋭いような、正直なような卑怯のような。愛すべきとは言い切れないが憎んだり見捨てたりする気は起きない。

この関口テイストがなければ、このシリーズはただの能書きだらけの嫌味臭いオナニー小説と成りかねない(言い過ぎであろう)のだが、それを絶妙に味わい深くしているのが、この冴えない、創作の主要登場人物にしてはあまりに冴えない青髭男・関口だと感じた。

この作者、やけに本が厚いのが多いが、文章はだいぶ読みやすく、すいすいとページが進む。厚さにフラストレーションを感じることなく最後まで読むことが出来た。



ちなみに、読んでから映画化されていることに気づいたが、あまり俺好みの味付けにはなっていなそうなので今のところそっちは手をつけていない。

2008年9月25日木曜日

【クビキリサイクル】頭の後ろが鉛のように

重い。

俺の仕事は一応、頭脳労働の一種だ(俺の頭脳が人より上等かどうかはともかく)。

だからこう頭に靄がかかっていては、とても仕事が進まない。いっそ少し寝るのが賢明か。


最近、電車の中が暇なので本を読むことにして、ここしばらくに数冊を読んだ。小説だ。


昨晩、一昨日買ったものを読み終えて、いや、その物語が終わりに近づくにつれ、俺の脳髄は沸々と・・・妙な熱が篭ってしまい、何の気力も萎え、朝、起きて出勤するのもいつも以上に億劫、億劫というか休みたいという気持ちでいっぱいいっぱい。

果たして、この三十路男にそれほどの衝撃を与える小説とは・・・。

・・・。


いや、普通にライトノベルなんだけどね。

難しい本は趣味じゃないし。


ちなみに、読んだのは「戯言シリーズ」とかいうらしい、その最初の「クビキリサイクル」。

首切り、サイクル?いや、たぶん、リサイクルだろうな、という予想は当たったのだろうと思っているが・・・どうなのだろう?

文庫版が出たからか、電車に広告があったのを覚えていて、なんとなくイマドキっぽいな、という興味で、たいした期待はせずに買ったけど、なかなかどうして、読んで見れば面白いではないか。
主人公はひどく絶望的に根暗でありながら妙な共感を呼ぶ、なんか風変わりな設定。




後からネットで評判を見たら、読んで気が滅入る人もいるらしい。嘘か本当か知らないが自殺した?とか。


だがしかし、俺はもはや感じやすい少年少女ではないからなあ。いくらなんでもそこまで影響受けたりはしない、当たり前だが。

脳の後ろ半分が鉛に置き換わってしまっかのように重いのは、物語に衝撃を受けたからではなく、単に面白かったから4:35AMまでかけて読んでしまったため、猛烈に寝不足なせいだ・・・ああ、眠。


広告や表紙の絵になっていた、玖渚という変わった名の少女は、主人公ではなくサブだったようだ。読み始めた時は絵で見た印象の可憐さとは違うな、とギャップを感じたが、読み終わる頃には結構な愛着を感じてしまった。まんまと作者の思う壺なのか?

それにしても、最近のこの手の小説の傾向なのか、一見現代のようでありながら、謎の機関や組織がいくつも暗躍する世界設定はもう滅茶苦茶だ。しかし、よく考えてみれば、それなら遠くの銀河で宇宙艦隊がビームを撃ち合うのは滅茶苦茶ではないのか?と言われれば、それもやっぱり無茶なわけだし、三毛猫が探偵するのも、竹から生まれた人間が月へ帰るのも、爺婆の垢が人間になるのも、みんな滅茶苦茶なのだ。

ドキュメンタリーじゃない物語の舞台設定など、如何様にでも滅茶苦茶であればよいと思う。



さて、最後に、もう少し具体的な感想を述べておくと・・・一応ミステリの範疇にあると思われる作品なので、当然のように人死が出るし、それに続くドラマがあるわけだが、その中で、

「人を殺してはならない。絶対に殺してはならない。そんなことに理由はいらない」

主人公が吐いたこの台詞には、ちょっとぐっと来るものがあった。
いや、この主人公は、そう単純に熱血で心優しいわけではないのだ。そういう文脈があってのこの台詞である。単純に文字通りに受け取るべきではない、と理解した。

その上で、俺は妙な納得を見出した。それは少なくとも、いつだか2時間スペシャルのサスペンスドラマで熱血刑事が犯人を諭していたような言葉よりは、ずっと納得できるものだと思って感心した。

ま、そんなこんなで、面白かったな。



ちなみに今まで俺はあんまり、漫画や本(特に小説)は買わなかった。

実は、実家にいた頃から、家族の買ったものなどをうっかり読み始めると、途中で止められなくなって、朝になってしまうことが多く、健康に悪いので買わないようにしたのだが・・・うーん、多少歳とっても直らないな、こういう性質は。

2008年9月13日土曜日

豚生姜焼き

ここのところ、メシがカップ麺とかそうめんのみとか続いていたので、休みなことだし肉でも食おうとスーパーを物色し、生姜焼き用豚肉半額を買って来た。

生姜焼き用を買って来てしまったからには生姜焼きを作るしかあるまい、ということで作り方をググる。例によって、いくつかを流し読みして自分に都合よく解釈し、作業開始。

以下、実践した手順。いつものことだが、他人には薦めない。自分の備忘録である。

1.豚肉は250gくらいあった。ロースやや厚7枚。いわゆる生姜焼き用。
2.タレ作る。酒を大さじ1、みりんを大さじ1、醤油を大さじ1.5。チューブ生姜とチューブにんにくをなんとなく「ひとかけら」とイメージするくらいの量。しょうがのひとかけらって結構個体差がありそうだが、…3cmくらいは出したかなあ。にんにくはその半分くらい。
3.そのタレにタマネギ半分をすりおろして入れる。しかし実際は、さらにその半分ほどしか使ってない。持つところが必要だったし。
4.ビニールに肉とタレを入れて、馴染ませ、口を折って冷蔵庫へ入れた。
5.およそ30分後、メシが炊けたので肉を焼き始める。フライパンにはごま油を少しひいた。
6.いただきます。


感想。

うまかったにはうまかった。一気食いしてしまった。
ただ、一気食いして見ると、

・ニンニクは不要だったな。うまいと言えばうまいが、生姜焼きは生姜があればよいと思った。入れるにしてももっとささやかで良いだろう。

・タマネギも不要だった。そういう生姜焼きもあるんだろうが、甘ったるくなって、おそらくその粒状のタマネギのせいか口当たりもほんわかして、俺の求める生姜焼きとは違った。もっとピリっとしてこそ、マヨネーズとの相補関係が引き立つのだと。

・肉は、面倒でも、タレに漬ける前にはちゃんと広げておいた方がいい。タレが馴染まない場所が出るし、焼くときに広げるのに手間取ると焼きムラが出た。


まあ、ほどほどには美味かった。