2008年9月28日日曜日

【涼宮ハルヒの消失】これは掟破りだろう

前に書いた通り、うっかり読んだ涼宮ハルヒの憂鬱が面白かったので、そのまま続巻を読んだ。

文庫として書き下ろされる長編の巻と、雑誌連載などで発表されていた短編をまとめた巻がだいたい交互になっているようだ。

短編は、それはそれで面白いが、それだけで読むと学園ドタバタストーリーに近い。最初の1冊が面白かったので読んだが、そうでなかったら俺はさほど興味を持たなかったかも知れない。

ただ、長編と繋げて読めば物語全体の伏線になってたりもして、最初の突拍子もない話に対して説明されなかった部分の謎解きみたいにもなっているから、そのまま読み進めた。

で、4冊目にあたるのが「涼宮ハルヒの消失」。



端的に言うと、涼宮ハルヒが消失する話というわけでなく、主人公である語り部の少年キョン、彼以外のすべてが消失する話だった。

消失すると言うよりは、周囲の世界がある朝すべて変わってしまうのだ。同じ家、同じ学校、同じ人々がいるが、少しだけ違う。自分が常々そうであれとぼやいていた通りの平穏な日々に、世界が変わってしまっていた。

そこから、主人公、常識人であり常識をこよなく愛するかのように振舞っていた主人公が、望みどおりの筈の、だけど改竄された世界で、元の鬱陶しい世界に価値を認め、帰って来るために奮闘するという話。

「大切なものは失ってみて初めてわかる」と言うような、言い古された格言を地で行くベタな展開だが、この作者の持ち味はそういうベタなところだと思う。ある意味純粋だ。

さて、シリーズの各巻をそれぞれ取り上げてないのに敢えてこの「消失」を再びここで取り上げたかというと、つまり、既刊をすべて呼んだ結果、この巻が非常に強く印象に残ったからだ。

あらすじを延々と書いても仕方ないので細かいことは書かないが、つまるところ・・・やはり、ベッタベタにベタな展開で、1冊目に同属と超絶バトルを演じた「無感情な宇宙人製アンドロイド」であるところの少女・長門をメインに据えた、ひどく切ない話になっているのだ。

人工的に作られた、感情の無い少女が、周囲との触れ合いの中で少しずつ、無かった筈の感情を獲得して行く。だが感情の獲得は同時に苦悩をもたらし、笑顔を知ると同時に悲しみを知ることになる、というお膳立ては、鮮やかなまでに、10年前に一世を風靡したロボットアニメ・・・つうかエヴァンゲリオン・・・つうか綾波レイを連想させる。

いや・・・ここで、こういう名前を出してしまっては俺もいよいよオタクの本流に腰まで浸かることになるのか、と危惧しながらも、日経新聞によれば日本人男性のうち100万人は綾波が好きだということだから、このくらいの注意の払い方は極めて普通人であると言っても差し支えないのだとも思うのでよしとしよう。

さて、そういうわけで、この「涼宮ハルヒの消失」の中核の成すエピソードも二番煎じだと言ってしまえばそうなのだが、それはアイデアレベルの話であって、料理の仕方はやはり違う。それが、非常にうまく行っていて、未熟な悲恋をスパイスにした少年の成長物語(こう表現するとこれまたベタだな)として爽やかな読後感をもたらしている。

いやあ、短く言っちゃうと本当アレだけど、しかし、やっぱシリーズとしてよく出来てる話だと思うよコレ。数冊まとめて買うときには余計に表紙が恥ずかしかったけど。



ところで、ここで開き直って、せっかくだから長門・綾波という「神秘的な無表情系」なキャラクターが、なぜ日経新聞の記者(しかも社説で)をトチ狂わせたりするほどに、コアな人気を獲得するのか・・・それを考察してみようと思ったが、そんなことを16000字くらい書いた日には俺もあっち側にお呼ばれしてしまいそうなので、止めておこう。

ただ、思うに、それはきっと、凄く青臭い言い方をすれば、と言うか青臭いことなのでそのようにしか言えないのだが、初恋への憧憬ではないか、と個人的には考えている。

恋に恋してなんかいない少女が、下心なんかない少年と出会って、自分でそれともわからないうちに、まだ恋とすら呼べない特別な感情を抱いて行く。それは何とも美しいではないか。タイピングしていて赤面したくなるくらいに。

現実では小学生だってエロ本を立ち読みし、大人の目が無ければ(実行は普通しなくても)ヤるのヤラないのと男女を問わずに下卑た話をする。いや、今時云々じゃない。きっと昔からだ。俺だって小学生の頃に友達とエロ本探しと称して藪を探検したりもした。

それはそれで、さほど不健全なものでも無いと思うが、しかし、高校生にもなれば男子の脳内はまともな片思いのひとつすらしていなくても「誰でもいいからヤラせてくれ」という欲求で満たされ、大学生になれば身体はもっと安売りされる。

いや、売春とかの話じゃないよ。それよりはマシなレベルの話をしているつもりだ。精神的な活動について言ってる。


ともあれ、それに対して、人工的である、という設定が保証する「完全に無垢」な状態から、主人公に心を開いて行く長門や綾波というキャラクター像は、まさに神々しいレベルの穢れ無さであり、そのエッセンスは、少しばかりの純粋さ或いは潔癖さを備えた男なら「思い出の1ページにそんな相手が欲しかった」と共感可能な要素であり、それはつまり女性における白馬の王子にも似た純粋な憧れのステレオタイプとなり得るものではないかと思うのだ。


あー。

結局そこそこ書いてしまった。
だが、これは俺が二次元キャラクターに偏愛を捧げているという意味ではない。文化的な考察だと捉えて欲しい。いやそう捉えてくれ。頼む。



それでも、俺は、幼い頃に漫然と見ていたアニメの中で、子供心に「かわいいな」と思ったキャラクターが、

・ハクション大魔王のアクビちゃん
・スプーンおばさんのルウリィ

であり、その他いろんな記憶をまさぐってみても、わずかに吊った目で無垢な雰囲気というヴィジュアルに共通項を見てしまうのは恐ろしい事実だ。

ちなみに、こんな世迷言を読んだらブチ切れそうな嫁も若干の吊り目であるから、そうか、俺はやはり正しくポリシーを貫いて生きてきたんだと、変なところで納得もした。

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