2008年9月28日日曜日

【ジーキル博士とハイド氏】100年以上前の話だったとは

つまり有名は「ジキルとハイド」です。

多少古い話だろうとは思っていたけど、よもや100年以上前(1886年)の作品だとは知らなかった。読み終えて、想像していた寓話的なものではなく、むしろSFミステリみたいなものだったと知り、尚のこと驚いている。

19世紀末、飛行機はまだ飛ばなかったが電灯もあればエンジンもあり、X線も発見されていた頃なので、薬品で人格を変異させるというアイデアくらいは出ても良いのかもしれない。それにしても。



読んだのは岩波文庫版。本編の最終章まで秘密にされている「ハイドは実はジーキルが変身した姿であった」という点が、表紙の1行目で勝手にネタばらしされているのが非常に不親切というか、少しは気を遣えよバカ、と言ったところである。

まあ、ジキルとハイドが同一人物というのは、さすがにいつどこでだかわからないが知っていたことだから読み進める上で興を削がれることにはならないが。

※以降、豪快にネタバレ


「ひとつ質問をするのは、石をひとつ転がすのと同じです。質問するほうは、丘の上に呑気にすわっていますが、石は転がり落ちながら、途中で他の石をいくつも動かしてしまいます。やがて、一人の実直な老人が自分の菜園で、その石のひとつに頭を打たれて死ぬことになるんです。」


ジーキル博士の友人であり、ハイド氏の秘密を暴くことになる若い弁護士に、友人が言った言葉だ。だから、余計な詮索をしていらないことに首を突っ込むのは慎め、と。

冒頭に近いところの言葉だが、なるほどなあ、と思った。そして、弁護士アスタンは、その忠告を聞き入れることが出来なかったために、確かに最後は老人が死ぬことになった。

だが、忠告を聞けていたら、老人は死なずに済んだのか?と問われれば、そうでもないだろう。いずれ破滅するものは破滅する。どの石がどう転がっても、誰も踏み入れない落石注意の崖下のような危険な場所に菜園なんか作ってケッタイなものを栽培してれば、そのうち石に打たれるのだろう。

というのが読後感である。



ところで、「ジキルとハイド」という慣用句?は、「同一人物の中の善人と悪人」と捉えられることが多いかと思うし、俺もそう思っていた。

だが、本編を読んでみると、これはどうやら間違っていたようだ。

つまり、ジーキル博士は、悪人なのだ。いかにも、慈悲の心を一片も持たず、己の欲望と感情と保身にのみ忠実な極悪人のハイド氏に比べれば、いささか一般人的な配慮を持っている。
だが、それでも一般的なレベルで見れば、十分に自己中心的で自己の保身に執着し、放蕩でありながら体面に拘る、けっして善人とは言えない人物として描かれている。

ジーキル博士が作った薬品は、本人の説明によれば、人を悪人に変身させるものではない。

個人の内部で対立している複数の人格の、いずれかひとつのみが肉体に対して支配的になる状態を作り出す、というものらしい。

だから、この薬品の効果により、神の如き聖人が顕れることもあるのだろうが、ジーキル博士においては顕れたのは悪鬼の如きハイドだったと。

ジーキル博士は、学問と慈善に尽くす紳士として振舞う一方で、隠れて破廉恥な享楽を求めずにいられないという困った人物であった。

だからハイドという人格(人格とともに、容貌も変わる)を手に入れたことに非常に喜んだ。だが、繰り返し薬を使うことで、徐々に、ハイドに肉体を乗っ取られて行く。

最後、ジーキル博士は顛末のすべてを手紙にしたためる。

もはや、薬がなくても意思と無関係にハイド氏に変身してしまう上に、ジーキル博士に戻るための薬は底をつき、再調合も出来なくなっていた。
ハイド氏はその後も元ジーキル博士の肉体を使って気ままに悪逆を尽くすかも知れないが、ジーキルという意識は二度と現世の肉体に宿らない。だとすれば、ジーキルは死ぬのだ、と悟って、遺書を書いたのだった。



肉体と意識と生と死の関係、テクノロジー(薬品)への依存と制御の喪失、そういったテーマに対して100年前とは思えない慧眼を感じた。

が、よく考えて見れば、その頃の、いやもっとずっと昔から人間は今と変わらず高度な思索活動を続けてきたのであって、今現在の世の中がすこぶる便利なテクノロジーで満たされているのは、現代人が1000年前の人間より優れているからではなく、人間という種が数千年にわたり知識を蓄積することが出来た結果なわけだから、わずか100年くらい前なら、このような話が書かれているのも道理とも思える。
いや、やはり先見の明はあると思うけど。


にしても、もっとも恐ろしいと感じたのは、やはりジーキル博士のそもそもの破綻した人格だろう。紳士の仮面と隠れた、しかし我慢の出来ない変態気質。

100年前のイギリスで描かれたこの人間の苦悩は、つまり、俺がつい1ヶ月前に近所の路上でたまたま見かけた、女装した中年男性(オカマとかニューハーフとかじゃない、女装露出趣味)を思い出すまでもなく、現代も同様かそれ以上に、人間を悩ませているのだと。


インターネットの普及は、人間が社会生活を送る上で秘めている性質の発露に貢献しているのは間違いない。正直に言って気持ちの悪い女装男のサイトを探すまでもなく、罵詈雑言に妄想妄言が溢れている。

それが悪いことかどうか、判断は難しい。隠されていることと存在しないことは違うからだ。しかし、とにかく、人間は二面性がある、というよりは、人間は隠している、近代に至りより多くを隠している、ということだけは確かなのだろうし、最近になって、その蓋があらぬ方向から少し開いて来た、ということも言えるのだろう。

ジーキル博士の薬には及ばないものの、それに近いものは、ブログやSNSのアカウントという形で手に入れられるのだ。

このブログも然り。

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